あじさいこみち
腹の上に感じた重みでは意識の覚醒を余儀なくされた。ずっしりと、腹に跨るその物体が、寝乱れた寝巻きの襟合わせの隙間の素肌に触れる部分は熱い。梅雨に入って蒸し暑い日が続き、寝苦しい夜が続いていた。だが腹の上の熱源はそのように煩わしいものではなく。
「………なに、やってんだよ。ギン」
寝苦しい夜はいつまで経っても気温が下がらず、結局寝付くのはいつも明け方近くになってから。実際今日も満足に寝た気がしない。寝られないからと言って、様々な用事を片付けている内にうっかり熱中してしまい、鳥が囀り東の空が白むまで気付かなかったということも今年に入って幾度となく繰り返してしまった。今日こそはゆっくり眠ろうと午前中いっぱいを寝床で過ごそうと決めていたのに。腹の上には先日拾ったばかりの子供がどっかりと乗っている。いや、ギンは普通の子供より細いし軽い。今まで生きるために最低限の食物しか口にしていなかったのだろう。同じ年頃の子供よりも彼は軽い。最も、この尸魂界で食べる事を必要とする者など限られているのだが。それでもギンは自分の体重で一番効果的な方法での上に重石として乗っかっている。が唸りながら寝不足で腫れぼったい瞼を押し上げると、飄々と笑った顔が鼻先に広がった。
「待て」
尚も近付いてこようとする白い顔をべたりと掌で押し止める。
「何しようとしてんだ、おまえは」
「えぇ?おはようのチュウ」
聞けばがっくりするような返答が返ってきた。
「どこで覚えてきたんだそんな破廉恥な行為を」
起き抜けにボケに対して全力でつっこむ元気などあるわけがない。うんざりしながら言うに残念そうに唇を尖らせたギンは「浮舟さんや」と答える。その回答には驚いて布団の上に起き上がる。腹の上に乗っていたギンは当然ころりと転がって、畳の上でぶつけたらしい頭をさすっている。
「浮舟っておまえ、遊郭の!?なんでおまえが知り合いなんだよ!?」
「なんでって、に惚れとる人なんやろ?遊びに行ったらお菓子くれたで。ボクのことの隠し子やなにかと勘違いしとるみたいやったわ。色々聞かれたけど適当に答えといたしな」
以前あまり親しくしたくないのにやたらと構ってくる髭面のオッサンに無理矢理連れて行かれた花街の遊郭で性質の悪い酔客に絡まれているところを偶然助けた、それが浮舟だ。もっともそれは源氏名で本名は知らない。そんなことがあってから好かれるようになったのだが、は下戸だ。酒が飲めないから遊郭へ行く意味がない。それでも来てくれと、礼を言いたいと請われて二度三度足を運ぶ内に浮舟はどうやら本格的にに想いを寄せるようになってしまったらしい。の方で敏感にそれを察して最近は訪ねることをしなくなったはずなのだが。
「なーんーでー花街なんかに遊びに行ってんだよ、ああ?」
「きゃーこわいー」
「けらけら笑いながら言ってんじゃねえぞこのマセガキが!」
最早眠気などすっかり彼方に飛んでしまっていた。怒るにギンは楽しそうな歓声を上げながら室内を走って逃げ回る。すばしっこい子供を捕まえるのは一苦労だ。何とかギンの着物の帯を引っ掴んで、は再び布団の上にどっかりと座り、自分の目の前に正座させた銀色の髪の子供に事の次第を詳しく話させた。
「まずは何でおまえみたいなガキが花街なんかに行く必要があるのか聞かせろ」
「暇やったんやもの」
「アホか!暇だからって遊郭に遊びに行く子供がどこにいるんだよ」
「ここ」
と、自分を指差して真顔で述べるギンには再び脱力させられる。がっくりと肩を落とし、背を丸めたに正座したままにじり寄ってきたギンが下からその顔を見上げる。
「浮舟さんに聞いたんやもの。好いとる人には態度で好きやいうことを示さんとあかんよ、って。ボクが大好きやからチュウしたいと思ったんやけど、何か間違うとる?」
「間違ってる、つうか」
澄んだ瞳でまっすぐに見つめてくる子供の視線にしばし答えあぐねては右手に顔を埋める。
「あー、ギン」
「なに?」
とりあえず名を呼んでみたものの、続く言葉が見つからずに再び黙り込むことになる。ギンはそんなを大人しく見上げて待っている。
「とりあえず、男同士ではそういうコトはしない、ってことだけは覚えとけ」
「えー」
「えー、じゃない!おまえ他所でそんなことやってみろ。俺が疑われるんだぞ!?」
「そやったらボクはどうやってが好きやって伝えたらええのん?」
「普通でいい」
「ふつうてなに?」
問われるままに返すが、相手はいたいけな子供だ。こちらの思惑全てを汲み取ってくれるはずはない。言いにくい事柄に対しては、言葉を濁すとその分余計に問われてしまう。きちんと座ったままの返事を待っているギンの姿を眺めながら改めて子育ての厳しさをは知る。っていうか、なんで俺こんなことで悩まなくちゃいけないの。などとは思ってはいけない。
「あー、だから普通っていうのはだな、こう、もっと軽い感じで」
「チュウはあかんのやろ?」
「それは将来お前が本気で惚れた女にだけするもんだ。故に却下」
ボクの一番はいつでもやもん、と唇を尖らせるギン。しかしすぐに何か思いついたのか、ぱっと表情を変えてを見上げた。
「ほな、ぎゅってするんは?」
きらきらと期待に満ちた瞳で自分を見るギン。多分、きっとこの子供はがこの瞬間手を広げて自分を受け入れてくれることを願っている。拒否されるなど、思いつきもしないまっすぐで無垢な心のままに。
「はぁ……」
未だに何処か寝惚けたまま、息をつけば途端にギンの表情が曇る。子供は身近な人の心の機微に敏感だ。それは自らが大人の庇護無しでは生きてはいけないのだと本能的に悟っているから、だからこそ周囲の気配を窺う術を身につけているのだろう。けれど今はそんなことは抜きにして、目の前の昼の光に透ける銀色を持つ保護対象の幼子が望んでいるのはたった一つ。が手を広げて受け止めてくれるのを待っている。どうしてだろう、そんな純粋さがひどくいとおしい。
「親心、ってヤツかな」
心の内にある感情に、推測をつける。逡巡してみても、答えは決まっている。ふと視線を上げてみる。対の桔梗色に映るのは、期待と不安をない交ぜにしたような、頼りない表情。はふ、とその場の空気ごと微笑う。
「ほら」
少しだけ手を広げれば、転がり込んでくる熱い体温。
「あーあーもう、蒸し暑いってのになんでこんなに熱のカタマリなんかを抱っこしなくっちゃなんないの」
隙間などないくらいにぴったり寄り添ってくるギンの重みに身を任せ、再び布団に転がったは、今度ギンを連れて浮舟に会いに行ってみようかと思う。酒は飲めないから昼間に。子供が喜びそうな、甘い菓子でも持って。そう、庭の紫陽花が綺麗に色付いている内に、一枝手折って土産にして。
完成日
2009/04/05