台所から機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえてくる。それと共に食欲をそそる出汁の匂いもただよってくる。きゅるる、と本能的に空腹を訴えた腹をさすり、浮竹は幸福な香りを胸いっぱいに吸い込んだ。ふと気付けば茶がなくなっている。お代わりを頼もうと、湯呑を持ってよっこいせ、と年寄り臭い掛け声と共にその場に立ち上がった。部屋を出て廊下を進み、台所の入り口にかかっている暖簾をくぐれば、案の定楽しそうに調理に勤しむの姿がある。
二人揃って休日だった本日、天気は快晴。実に気持ちのいい秋晴れである。は朝から家中の掃除をし、ここのところ秋雨で溜まっていた洗濯物を一気に片付け、そうして午後には買い物に行き、滋味豊かな秋の味覚をどっさり買い込んで戻ってきた。そのまま休む暇もなく厨に篭ったに、休みの日ぐらいゆっくりしたらどうだ、と声をかけるものの、「動いている方が性に合っているんですよ」と笑われてしまえば黙るしかない。そんな訳で好きにさせていたのだが。
「さすがに作りすぎじゃないのか?」
食卓の上に並んだ皿の量に思わずそんな言葉が出る。ほかほかと湯気を上げる料理はどれも美味しそうだが、二人きりのこの家で、全て食べきれるとはとても思えない量だ。かと言って、残すのは忍びない。真剣に悩む浮竹の言葉に気付いたが振り返る。
「あ、隊長。どうしたんですか」
「お茶のお代わりを頼もうと……いや、しかし、これはさすがに」
「お茶ね〜はいはいっと。お湯が沸くまでちょい待ってくださいね」
手早く薬缶を火にかけ、急須に緑茶の葉を用意する。手際のよさは京楽が常々「お嫁さんに欲しいよね〜」としみじみ言うほどのもので、事実浮竹に嫁が来ないのはの所為で彼の理想がどこまでも高くなってしまったからである、と噂すらされている。家事全般において完璧を誇る部下を持って、浮竹は護廷十三隊一、果報者の隊長として名を馳せているのである。
「来客の予定でもあるのか?」
この量の料理を二人で平らげることなど無理である。浮竹はそこそこ食べる方だが、は意外に食が細い。作るのは好きでも、自分が食べる事にはあまり興味が無いらしい。誰かが自分の手料理を美味しそうに食べてくれればそれでいい。だからは身長の割に細いのだ。以前、自分の病弱さを棚に上げて指摘したことがあるのだが、「いや、でも俺風邪とかここ数十年引いたことないし、足腰丈夫だし、結構だいじょうぶですよ?」と真顔で返されてぐぅの音も出なかった。(その時浮竹は季節の変わり目に引いてしまった風邪を二週間引き摺っていた)
「今晩、春水さんが来るって言伝を預かったんですけど」
浮竹の疑問にがきょとん、とした表情で首を傾げた。きっとお酒も飲むだろうから、頑張って料理をしているんですけど。だってあの人面と向かって言わないけど結構味に厳しい人だし。そこんところはさすが貴族って感じですよねー。からからと笑いながら言う合間も手を休めない。
「……聞いていないぞ」
そんなの隣で、浮竹はたっぷり逡巡した後に、苦々しくそう呟いた。
「あれえ?でも確かにお使いに来た子は『浮竹隊長はもうご存知です、と隊長が言っていました』って」
「使いの、誰だ?副官か?」
「いいえ、リサちゃんじゃなくって、もっとちっさくっってですね、すんごい可愛い子でしたよ」
思わず頭撫で繰り回してお菓子あげちゃった。と、は頬を緩めてその時の事を思い出している。彼は子供が好きだ。というより、小さくて可愛いものが大好きなのである。
「めがねっこだったなー、そういえば。リサちゃんが大好きだって言ってたな」
「そうか。だが俺は知らないことだったぞ」
「そうなんですか?じゃあ又春水さんが勝手に言ったのかな?」
「勝手に言ったなんて人聞き悪いよ〜」
十三番隊の隊長と、八席の会話に割り込む第三者の声。二人が一斉に振り返ると、暖簾をくぐって京楽がやって来たところだった。
「言うのが遅くなっちゃっただけで、浮竹に内緒で勝手に来ようだなんて思ってないよ」
「京楽、おまえなぁ……」
許可も受けずに夕飯を食べに来たばかりか、家主に黙って勝手に上がりこんだ旧友に呆れた表情しか向けられない浮竹。そんな上官の隣で、は「うわぉう!?」と悲鳴を上げた。
「り、リサちゃん……会うたびに俺のケツ触るのやめて」
いつの間に背後に回ったのか、八番隊の副隊長である矢胴丸リサがの背後に立ち、その手をしっかりと彼の袴の腰の部分に当てていた。
「何でや!?」
の涙目の抗議に彼女は心外だと言わんばかりの反応を示す。
「いや、何でって。普通にセクハラだし」
「愛情表現や」
ふん、と鼻を鳴らしてリサは堂々と言い切った。そんな副官の言葉に敏感に反応したのが彼女の上官である京楽で、
「嘘!僕触ってもらったことないよ!?リサちゃん僕も僕も」
言いつつ自分の臀部を突き出す京楽に、「嫌や」と、副官の反応はどこまでも冷ややかであった。
「まあ、来たものはしょうがないな。とにかく料理が冷める前に始めるか」
どこまでも心の広い男、浮竹は最前の京楽の無礼など気にもしていない様子で(目の前で尻を突き出す八番隊隊長と、冷ややかにそれを跳ね除ける副隊長もさらりと無視して)、ささやかな宴を始めるべく茶の間へ布巾を手に移動した。
「あ、隊長俺が」
「いいからは残りの料理を仕上げてしまえ」
「僕も運ぶの手伝うよ〜。あ、勿論手ぶらじゃないからね」
ほら、と京楽は彼の秘蔵の古酒を手に捧げてみせる。当たり前だ、とぼやく浮竹の後をついていった。後に残されたのは菜箸を片手にしたと、リサ。未だに自分の背後に立つ彼女の次の行動に多少怯えながら、とりあえずはへらり、と笑ってみせた。
「何笑っとるんや」
しかし返って来たのは冷たい一瞥。予想以上に辛辣な反応に次の言葉が浮かばず、引き攣った笑顔のまま沈黙するしかない。
「真子が言うとったけど、ホンマなんやね」
短い沈黙を破ったリサの言葉には瞳を瞬かせ、一つだけ、頷く。
「何で戻って来たん?」
「……最近拾ったのが予想外に食うから食費が」
「真子から聞いた。でももうその理由は通用せえへんやろ」
黒縁の眼鏡の奥から鋭く睨まれて、は思わず口を噤む。確かに、その理由はもう通用しない。彼の手元にはもう、幼子達はいないのだから。
「あの家を出たゆうことは、此処に戻って来たんは、つまり」
「リサちゃん」
言い募ろうとする彼女の言葉を止めたのは、桔梗色の優しい双眸だった。己の目線より少し上から降り注ぐ、その優しい色に言いようの無いもどかしさを感じる。彼女のもどかしさに気付かないフリをして、はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「全部俺が決めて、俺が許したことなんだ。だから、大丈夫」
「」
「心配してくれてありがとう。でもね、俺、大丈夫だから。浮竹隊長は優しいし、京楽隊長も気にかけてくれてるし。何だかんだ言って真子もひよ里も、みんな俺の心配してくれるだろう?だから大丈夫」
大丈夫だと、繰り返し彼は言うが、何が大丈夫なものかとリサは内心毒づいた。そんな、今にも泣き出しそうな顔をして、心細そうな顔をして。何が大丈夫なものか。『あの家』で起こった出来事は、まだ彼を縛り続けている。未だに塞がらない傷を抱えて、それを隠してまで、彼は笑おうとする。それならば、
「隠されると、暴きたくなるわ」
不敵に笑って言う。そんな彼女に、は両目を瞬かせて、ゆっくりと口角を上げて笑った。その笑みは先程と違って、哀しい気配の無いもので。そんな風に、笑うことが少しでも出来るのなら。あの長い時間は無駄ではなかったのか。
「いやん、リサちゃんのエッチ」
「愛情表現や、て言うたやろ?」
ふざけた物言いをするのは、本心を隠したいから。気付かずに乗ってみせるのは、その方が彼にとって気が楽だと知っているからだ。
「だからケツ触るのやめてって言ってるのに」
勿論、リサ自身の個人的な欲求を満たすのも大部分を占めるのだが。
「煩いわ。料理人は大人しくケツ触られながら料理しとき」
「リサちゃんの愛は即物的すぎるよ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、は料理を仕上げてゆく。茶の間の方から京楽が二人を呼ぶ声がした。「はいはい〜」と、返事をしながら、最後の料理である煮物を大鉢に移し、傍らのリサを振り返ると笑った。
「お腹空いたし、行こうか」
どうか祈って下さい、あなたの為に
その笑顔が、いつか本物になることをたくさんの人が願って、祈って、望んでいることを。
早く気付いて、思い知ればいい。
完成日
2009/11/01