弥生の月に入ってようやく厳しい寒さがやわらいできた。風も水もぬるくなり、冬の間張り詰めていた緊張感から人も動物も、花も木々も解き放たれつつある。月の光が柔らかく降り注ぐ中、上を見上げて微笑む。其処にあるのは薄紅の。
「こんばんはー」
朽木家の門前では間の抜けた声を上げた。しばらく間があって、重厚な門が軋んで少しだけ開く。中から顔を出した朽木家の使用人は、の姿を認めると深々と礼をした。
朽木白哉は自室で一人座していた。自分の屋敷内にいるというのに寛ぐ様子もなく、背筋を伸ばしたまま、静かに物思いに耽っていた。そんな彼の耳に少しだけざわめきが聞こえた。その騒がしさはどうやら自分の部屋に近づいているらしい。少しだけ眉をひそめて気配を探っていると、
「失礼致します」
使用人が控えめに声をかけてきた。
「何だ」
「様がおいでになっております」
「……が?」
告げられた名前を口の中で繰り返し、白哉は軽く目を瞠る。「通せ」と短く告げると、襖の外側で使用人が頭を下げた。そのまましばらく待っていると、へらりとした笑みを浮かべて当の人物がやって来る。
「何用だ」
「やだな、そんな喧嘩腰。お土産持ってきたんだから許してよ」
は手に捧げた風呂敷包みを見せるが、白哉の眉間の皺は緩むでもない。しかし彼の眉間に刻まれた皺は、彼の一部となっているので今更無くなるとも思えない。むしろ朽木家の当主が満面の笑みを浮かべている様子を想像する方が難しい。
「ちょっとお庭を貸して欲しいだけだって」
「庭を?」
「だってちょうど見頃だろう?」
閉められていた障子戸を勝手に開けるの振る舞いに眉間に新たに皺を一つ増やした白哉だったが、開け放たれた障子戸の向こうに広がった光景に少しだけ得心した。
「桜、か」
庭に植えられた桜がちょうど満開を迎えているのだと、今朝方使用人が言っていた気がする。しかし今の今まで全く覚えていなかった。
「うーん、やっぱり朽木の家の桜は見事だなー」
満開を咲き誇る桜は、まるで光を放っているかのように月明かりに白く浮かび上がっている。風が吹く度にはらり、はらりと静かに散っていく。その奥ゆかしさは白哉にとって好ましいものだ。そうしてその下に佇むの姿は、いっそ魔的とさえ思えるほどに美しかった。平時から貴族として暮らしている白哉は、それなりに価値のある美しい物に囲まれて生活しているのだが、眼前にある風景はそのような凡俗な価値観では計れない物なのだと思い知らされる。
「桜の木には鬼が棲むというが、よもや……」
「?何か言ったか?」
「いいや。兄は此処へ花見に来たのか」
の姿に昔語りの鬼を重ねたなどと言える訳もなく。そんな白哉を振り返って不思議そうに見るの目は、すぐに桜に奪われた。
「ちゃんとお菓子も持参してるぞ」
手に捧げ持っていた風呂敷包みを後ろ手に押しつけてきたの態度に眉を潜めるも、結び目をほどいて中身を検める。出てきたのはずっしりと重い重箱で。黒漆に金蒔絵の細工が美しい。蓋を開くと中にあったのは春めかしい香りを放っていた。
「……桜餅、か」
「お、知ってたんだ」
「馬鹿にしているのか」
「いやん、そんな訳ないじゃないの。短気なんだから白哉坊ちゃんはさー」
からかう口調にムッとして剣呑な視線を向ければ、あっさりと躱された。いくら貴族で世間知らずといっても、桜餅ぐらいは知っている。というより、茶を点てる際に添えられる菓子は季節を重視しているので、自然と詳しくなる。もっとも、この場合は菓子を用意する使用人の心配りの細やかさに感謝するべきなのだろう。
「昼間、剣ちゃんとこのお花見に巻き込まれてさー」
「十一番隊のか。一騒動あったそうだな」
「みんな酒が入ってべろんべろんになっちゃってね。隊舎が半壊したよ」
何故か遠い目をするに訝しげな視線を向ければ、これ以上は聞いてくれるな、と桔梗色が語ったので詮索をやめた。元々それほど興味のあることでもないし、十一番隊と聞くだけで大方の想像はつく。
「昼間も花見をしていたのなら、なぜまた」
「いやー、あれを花見と言っちゃあ、ダシにされた桜が可哀想だろう」
言って、は満開の桜の木の下に無造作に座り込む。敷物も何もない場所に腰を下ろした彼を白哉は黙って見つめていたが、に手招きされて側に寄った。
「やっぱり花は静かに愛でてあげなくちゃ。というわけで、白哉もしっかり見とけよ。花の命は短いんだからな」
「……兄は何故、ここへ来たのだ」
二度目の問いかけには微笑んだ。
「いつも眉間に皺ばっかり寄せてる朽木家のご当主様とお花見をしに」
風が吹く。散った桜の花びらが、重箱の中へも降り注ぐ。
「だって白哉は俺が教えてあげなかったら、花が咲いていたことも知らなかっただろう?」
そんなことは、と反論しかけてやめた。の言うことは癪だが当たっていたからだ。代わりに唇の端に薄く笑みを浮かべて、「そうかもしれぬ」と小さく返した。の隣に腰を落ち着けて、改めて見上げる。ひらひらと落ちる花びらと、青白い月明かりが春の夜をゆっくりと包み込んでいた。
夢宵桜の花の色
「……甘い」
桜餅を手に取り、一口した白哉がそう言って顔を顰める横では思わず吹き出した。
「お菓子なんだから当たり前だろう」
無理しなくてもいいぞ、と茶を片手に桜を見上げるを横目で見遣り、手の中の桜色に再び視線を戻す。実際はそれほど甘く作られてはいない。が白哉の口に入ることを考えて、砂糖を控えめにして作った餡は上品な甘さでしかない。だが普段食べ慣れない甘さに白哉が顔を顰めるのは仕方がないことだった。甘い物好きなルキアであれば、喜んで食べるのだろう。ましてやの手作りとなれば尚更だ。
「無理などしていない」
だが、今宵はルキアにさえも譲る気はなかった。渋面を作りながらも手元の菓子を口に運ぶ。その律儀さには緩く笑みを作った。
完成日
2010/4/25