優しい蒼に染まるこの世界がいとおしい。
ライトブルー・ディープブルー
「ああ、やっぱり」
聞き慣れた、けれども二度と聞くことは叶わないと思っていた。誰もが一瞬それぞれの動きを止め、それから振り返る。ある者はゆっくりと。またある者は弾かれるように。その声の主、黒髪に桔梗色の瞳を持つ美しく整った造形の持ち主、緋月が深い藍色の夜空に浮かぶ、銀色の月を背に薄く微笑んで立っていた。
「!」
真っ先にその元へ走り寄ったのはひよ里。怒ったような、信じられないといったような表情をして、まっすぐにの腕に飛び込んでいく。
「えー?何でっちがいるの?」
のんびりとした口調で、しかし眼を丸くして本人なりに驚いているのは久南白。
「前にルキアちゃんを探しに降りた時にさ、知ってる霊圧の気配をちらほら感じてさ。コッチに知り合いなんて数えるほどしかいないから、おまえらだろうなー、って」
首に抱きついたままのひよ里の背を幼子にするようにあやしながら、はゆっくりと近づいてくる。
「もうちょっと早く来られればよかったんだけどな。遅くなってごめん」
「ごめんで済むなら警察はいらんわ」
憎まれ口を叩きながらも、ひよ里の心中は複雑だ。尸魂界を追放された自分達の元へ、が訪れることなど本来はあってはならないことだ。会いに来なかったからといって、を責められない。それは筋違いというものだろう。だけど、優しい彼は詫びる。
「うん、ごめんな。ひよ里」
謝りながらひよ里の頭を撫で、顔を上げて改めてその場にいた懐かしい面々を見渡す。一人一人の目を見て、そうして心の底から安堵した表情をしてみせた。
「元気そうでよかったよ」
その一言で、どれだけ心配させたのか。知ってしまった平子は気まずそうに頬をかく。いつもなら猛烈な勢いでにくってかかるはずのひよ里が大人しいのは、彼に一言も告げずに現世へ降りてきた負い目があるからだろう。は全てを知らなかったわけではない。浮竹や京楽、あるいは浦原などから事の顛末を聞かされていたか。あるいは彼自身のその『役目』故に、上層部から知らされたか。いずれかの方法では平子達の境遇を知っていたに違いない。
「って、しみじみと感動してるんだから、リサちゃんケツ触るのやめて……」
いつの間にかの背後に回っていた彼女を首だけで振り向いて、少しだけ涙目になりながら文句を言うと、
「愛情表現やって言うとるやろう」
変わらぬ物言いで返事をする、そんな彼女の様子に最早諦め半分といった様子ではため息をつく。
「あー、もう、ほんっと変わらないんだから……」
半眼でぼやきながらもしがみついたままのひよ里を立たせて、ゆっくりと平子達の元へ歩み寄ってくる。その彼がまとうのは死覇装。死神の象徴とも言える漆黒の衣だ。
「おまえが此処に来たちゅうことは」
懐かしい思い出に浸るより、が平子達の元へやってきた、その理由の方が気にかかる。死覇装をまとって来たということは、旧友としてではなく、死神としての役目を背負って来たということになる。平子達はいわば瀞霊廷の法の外で生きる者達だ。が本来の役目を執行するというのなら、生き続けるために抗わなくてはならない。
「そんなに警戒すんなよ」
そんな平子の心情を察したのか、は苦笑いを浮かべる。
「おまえらを捕まえたりなんかしないよ」
信じろっていっても難しいかもしれないけどな。苦笑したまま続けられる言葉に平子は深い息をつく。が嘘を言って自分達を嵌める事などない。そんなことは有り得ないという確信がある。
「今日は本当に仕事のついで。予想外に早く片付いたからちょっと寄り道。たまには俺だってさぼりたくなるんだよ」
肩を竦めて平子の後ろ、距離を置いて未だに警戒の気配を崩さない六車や羅武、ローズにちらりと視線を向ける。そういえば、彼らとはあまり話をしたことがなかった。の人となりを知らない彼らからすれば、死覇装姿の死神など敵に等しい存在だろう。それほどまでに自分達は彼らに酷いことをした。警戒するなという方がおこがましい。だから、それでいい、とは思う。無条件に他人を信じることなどしなくていい、と。
「行くよ」
短い再会の時間に終わりを告げて、はゆっくりと踵を返す。
「さよか。ほな、またな」
平子の軽い調子には振り返って微笑する。その微笑みは、冴え冴えとした月影のもと、背筋が凍るほど美しいものだった。一番近くでそれを見ていたひよ里は、改めてが『異形』の持ち主だということを思い出す。
「ひとつ」
静かな声音では告げる。今宵、此処へ来た目的を果たすために。
「何や」
応じる平子に桔梗色の眼を向けて、死覇装をまとった死神は続ける。
「頼みがある。俺におまえらを斬らせないでくれ」
感情のこもらない、耳に心地よい音は、確かにそう聞こえた。一瞬の間の後、ようやく意味を解したひよ里が本能的に後ろへ飛び退る。そうして思い出す。彼の持つ斬魄刀が『同胞喰いの刀』と呼ばれていたことを。その斬魄刀は、虚を斬るための刃ではない。尸魂界の裏切り者を始末するための刃だ。以外の全員がその事実を思い出し、一気に緊張に包まれる。
「任しとき」
あと数秒、その緊張が続けば誰かが刃をに向けていただろう。そんなぎりぎりの均衡を崩したのは平子だった。右の小指を耳穴に突っ込んで、ふざけた空気で場の空気を一変させる。
「俺がを泣かす真似するわけないやろ」
「そっか。じゃあ、安心だな」
目を伏せて口元だけで微笑んだ。今度こそ立ち去るために開け放った扉からは、光が差し込む。いつの間にか朝が来ていたらしい。朝日の橙色と、夜の名残の薄い蒼。その境界を眩しそうに見上げて、今日もいい天気だな、と呟く。そうして光に溶けるように、黒い死覇装が見えなくなる。
「ウチら」
「あぁ?何や、ひよ里」
明るくなった室内で膝を抱えて、ぽつり、と零す。脳裏に浮かぶのは、朝焼けをいとおしそうに見上げていたの横顔だ。その表情があまりにも印象に残ってしまった。
「ウチらがいなくなった時、にあんな風に淋しそうな顔させてしもたんやろうか」
なあ、真子、と隣に立つ同胞を見上げる。
「そやなぁ、アイツはほんまに昔っから馬鹿がつくほどのお人好しやからなぁ」
平穏を何よりも望むを、きっと自分達は悲しませてしまった。自ら望んだわけではないとはいえ、優しさを裏切ってしまった。
「次は、ヘマできひんなぁ」
平子の言葉に眉をしかめたままひよ里も頷く。ひび割れたガラス窓から空を見上げる。が言った通りのいい天気だ。少しの間だけ、何もかも許せてしまえるような。そんな風に思えるほど澄み切った青空。いつかこの空の下を、憂い顔ではない彼と歩けたらいい。そう願わずにいられない。
完成日
2010/10/03