水鏡



”と。出席簿に書かれたその名をスネイプは複雑な思いと共に見下ろしていた。しばし無言でそれを睨むように眺め、絡みつく様々な思い出を振り切るように首を左右に振る。顔を上げれば、そこにはかつて彼が親しんだ面影を寸分違わず宿した少女の姿が目に入る。似ている、などという生易しいものではない。あれではまるで、
「本人ではないか」
ぎりり。奥歯を噛み締めて唸るように低く呟く。血縁の者が来るとは聞いていた。ダンブルドアからの者が新入生としてホグワーツにやって来ることを聞いた時、懐かしいその名の響きに僅かに心が揺れた。あの日以来、決して自分から口にしようとしなかったその名。ましてや周囲には、“彼女”という思い出を共有できる者などいなかったから尚更だ。
「ねえ、さっきからものすごい視線を感じるんだけど」
机に頬杖をついたまま、が半眼になって呟く。
「ははん。俺の美しさに寮監もくらくらって訳だな」
真顔で言い切る従兄弟をしばし残念そうな表情で見つめ、もう一度前に向き直る。僅かに一瞬、教壇の上の、気難しい黒ずくめの教師と目が合った。
「……っ!」
驚いたことに、視線を逸らしたのは教師の方だった。あまりにもあからさまに逸らされた視線に、はきょとん、と大きな瞳を瞬かせる。解せないスリザリンの寮監の態度に首をかしげつつも、平静を取り戻したスネイプが意地の悪い表情を浮かべてハリーに難題をふっかけているのを見ていた。

ホグワーツに手紙を運ぶのは梟の役目だ。最初は飯時に広間にばっさばっさと飛び込んでくる数百羽はいるであろう梟にびっくりした。食べかけのスープに羽毛が入り、一口しか齧っていなかった厚切りベーコンを奪われた時は余所様の梟といえど制裁として羽を毟って丸焼きにしてやろうかと思ったほどだ。そんな自分のちょっぴりお茶目な見解を同じテーブルについていたハーマイオニー、ハリーやロンに伝えると、三人は一様に青褪めた顔をした。
「そ、そういえばにはふくろう便来ないね」
話を逸らそうとして、結局うまい話題が見つからずに同じ路線を辿ってしまうロンにハーマイオニーは「ばかね」と小さく呟いたが、は聞こえなかったのか、あっさりと「必要ないもの」と返して食後の紅茶を啜る。本当は緑茶が飲みたいんだけどなあ、と思いつつも我慢する。食文化の違いだけはどうしようもないのだと諦めた。
「必要ないって?」
「フクロウなんかに手紙を運ばせたら何日かかるか分かんないわ。だってあたしの家、ニッポンよ?」
「そういえばそうね」
強靭な翼を持つ梟も、地球を半周させられたら流石に途中で力尽きてしまうだろう。たった今思い出したという風にハーマイオニーが言って、と同じように紅茶を出して、砂糖とミルクたっぷりのミルクティーを美味しそうに飲んだ。
「でも、それじゃあどうやって連絡を取るの?お家の方も心配するでしょう?」
「フクロウなんかよりもっと簡単な方法があるの」
友達の問いにそう答えて、は紅茶のカップを静かにテーブルに置いた。一度目を閉じて、呼吸を整え、銀のスプーンで無造作に紅茶を一度、かき混ぜる。くるり、と廻る水面が静まった頃。こぽり、と音を立てて小さな気泡がカップの底から湧き上がってきた。やがて泡は数を増し、半分ほどだった紅茶がカップから溢れそうになるほどまでになった頃、泡の中心から何かが浮かび上がってきた。
「な、なに!?」
隣での手元を覗き込んでいたハーマイオニーが驚いて息を呑む。最初は黒い何か。段々と浮かんできたそれが人の形を成していることに気付いたのはしばらく経ってからだ。長い黒髪を背で一本に結わえ、青竹色の和服を着て温和な笑みを浮かべた大人の男性、だった。ただしサイズはとても小さい。そんな男性に向かって、は嬉しそうに頬を紅潮させて「父さん」と話しかけた。
『やあ、。ホグワーツの生活はどうだい?友達はできたのかな?』
紅茶の水面に立つ男性、の父親である保雅は娘に向かってごく普通に問いかける。
『うん。思ってたよりは楽しい』
『そうか。それは何より』
ハーマイオニーには聞き取れない言葉で(恐らくの母国語、日本語なのだろう)で会話する親子に、テーブルの向かい側に座っているロンとハリーも口をあんぐり開けて驚いている。ハリーはともかく、魔法族の中で育ったはずのロンまで目の前の光景が信じられないといった顔をしていることに、やっぱり東国の魔法はこちらとは違うのね、と結論付けたハーマイオニーだったが、
「で、この子がハーマイオニー。同じ部屋になったの」
「初めまして。が世話になっています」
「え、あ、えっと初めまして!」
唐突に紹介され、紅茶の上に浮かんでいるの父親に座ったままで会釈をした。
「色々と変わった子だから迷惑をかけるかもしれないけれど、仲良くしてやってくれないかな」
柔和に微笑みかけられて、ハーマイオニーが赤面しつつもYesと伝えると、保雅はに二言、三言何かを言い置いて、その姿を消した。紅茶の水面が静かになると、はと瞳を潤ませて頬を紅潮させて「ああ、父さんかっこいい……」と呟く。横でハーマイオニーも同じく赤面したまま同意する。正面の席で二人の少女のそんな様子をじっと見ていたハリーだったが、隣のロンにつつかれて席を立つ。大広間を出るまでちらちらとを振り返っていたが、彼女は恍惚とした表情のままハリーを見ることはなかった。
「変わった魔法を使う子だね」
「そうなの?」
「フレッドやジョージもよく自分達で新しい魔法を発明しようとしてるけど、ああいうのって難しいんだ」
ロンが兄達の実験により悲惨な目にあった歴代ワースト100の出来事を延々と話している最中、
「ハリー」
高く透きとおる少年の声がハリーの耳朶に響いた。地下から続く階段から現れたのは、金茶の髪をした美少年。

「よ」
軽く片手を上げて愛想よく笑うの、ネクタイがスリザリンカラーだということに気付いたロンは露骨に顔をしかめている。そのことに気付いたハリーがフォローしようと口を開きかけるよりも早く、が「見なかった?」と聞いてきた。
「食堂にいたけど」
に何の用だよ、スリザリン」
剣呑に顰められた表情から紡がれた声は明確に悪意をもっていた。それが自分に向けられていると分かると、は訳が分からないという風に首を傾げた。
「確かに俺はスリザリン寮だけど、そう呼ばれるのは心外だな。俺には・M・って名前がきちんとあるんだから」
異国からやって来た少年には、家名と伝統を重んじるこの国のあり方が分からない。理解したところでには何の意味もない。ホグワーツという伝統ある魔法学校。その生徒達の間にある他寮への敵愾心。それは時に密やかに、時に明確に悪意と言う名の凶器と成り得る。はくだらないと思ったし、そもそも英国の伝統など自分には無関係だ。ずっとそうやって育てられてきたのだから。だから目の前で自分を睨みつけてくる赤毛の少年に何の感傷も抱かなかった。
「で?」
「な、何」
するすると淀みなく名乗りを終えたところで、がその琥珀色の双眸をロンに向ける。吸い込まれそうな程澄んだ瞳にじっと見つめられて、思わず後ずさるロンに尚も詰め寄る。丁寧に整った顔は女の子のようだ。ロンには妹が一人いるが、その妹などよりずっと可愛い。そばかすの浮いた顔を自身の赤毛より真っ赤になった顔を必死で逸らす。
「だーから、名前!俺が名乗ったんだから、おまえも教えろよ」
「ロン・ウィーズリー」
「そっか。よろしくな、ロン」
思わず口から出た自分の名前。人懐っこく笑うに拍子抜けする。スリザリンの持つイメージとあまりにもかけ離れた快活さに吃驚していると、いつの間にか右手を取られて握手をしていた。
「そんじゃ俺行くよ。またな、ハリー、ロン」
にこやかに手をふって悠然と歩いていくの後姿にロンは未だ呆気に取られたままである。一方、二人の様子をはらはらしながら見つめていたハリーは何事も起きなかったことにほっとして胸を撫で下ろしていた。
「なんか、変なやつ……」
ぽつりと呟かれた言葉に、ハリーはにっこりと笑った。
「うん。友達なんだ」


 




完成日
2009/08/02