決して認めてはいけない。
この心が傷つくはずなどないのだから。




猫と夕焼け 前編



裏庭でスカートが汚れるのも構わずにはしゃがみ込む。
その腕の中には泥で薄汚れた小さな子猫。
リドルは思わず顔をしかめて、躊躇いもなく子猫を抱き上げたを見つめる。
背を向けているからその表情は彼女には伝わらない。
だが、何かを感じ取ったのだろう。
「そんな顔をなさらないでくださいな」
やんわりと壊れ物を扱うようにが言う。
「ただの猫だよ。どこから迷い込んだのかは知らないけど、森に入ってセストラルの餌になってしまうのがオチだ」
容赦なく言い捨てて、彼は猫をさっさと捨ててしまうように促す。
しかし彼女は聞かず、黙ったまま顔も上げない。
、分かってるんだろう?」
ここでは魔法生物ではない普通の猫は生きられない。
しかも彼女が抱えた猫は見るからに弱っている。
放っておいても直に果ててしまうということは明白だった。
「まだ、生きています」
ぽつりと呟かれた言葉は、降り出した雨に流される。
昨夜散々降ったはずの雨はそれでもまだ足りないのか、徐々に強くなっていく。
足元がぬかるんでいるのは今朝からで、革靴に跳ねる雨粒は泥を跳ね返していた。
太陽の光は何処かへ置き忘れてこられたらしい。
まだ昼間だというのに辺りは薄暗い。
雨は彼や彼女の髪を湿らせ、頬を濡らし制服のシャツを肌に張り付かせる。
その不快感もさながら、ここ数日様々な要因から全てに苛立っているリドルは彼女のそんな一言すら許容できずに声を荒げる。
「どうせ死んでしまうんだ、ならさっさと死んでしまえばいい」
ぴくり、との細い肩が揺れた。
しかし言葉は返ってこなかった。
「勝手にしなよ」と言い残してリドルはその場を後にする。
歩きながら彼は考える。
彼女の肩はあんなに頼りなかっただろうか、と。


人の感情というものは得てして凶器と成り得る。
あの日、は授業が終わってから寮監であった魔法薬学の担当教師と少し話し込んでおり、リドルは先にスリザリン寮の生徒と共に夕食をとる為に大広間へ向かった。
リドルにとって彼らは友人と呼ぶ存在ではなかったが、それでもが隣にいるようになってから同じ寮の生徒とある程度親しく話すようになった。
スリザリンの生徒は代々純血の名家の家の者が多かったので、ハーフである自分は些か気後れしてしまうのだが意外にも彼らは自分を受け入れてくれていた。
学年主席という成績の優秀さや魔法力の高さ、持って生まれた容姿の端麗さは勿論、一番の理由はサラザール・スリザリンの血を引いているということだろう。
千年近く続く家柄の最も古く、高貴な血統の最後の一人がハーフであることにさぞやがっかりしただろう。
それでも彼らは自分の傍から離れることはない。
それが何故なのかリドルは意識の奥底ではっきりと自覚していた。
他愛のない話をしながら地下からの階段を上り、玄関ホールに出ると、丁度上から降りてきたグリフィンドール生と一緒になった。
今に始まったことではないが、スリザリンとグリフィンドールは仲が悪い。
原因など誰も知らないが、伝統のように上級生から下級生へと仲たがいの因子が受け継がれている。
今日も互いに気まずい空気が流れ、嫌悪するかのような視線を投げかける一部のグリフィンドール生にこちらもただ黙っているわけにはいかない。
「どいてくれないかしら、穢れた血さん?」
リドルのすぐ傍にいた女子生徒が赤と黄色のネクタイを締めた茶色い髪の少女にあからさまな侮蔑を込めて言葉を発するのを、リドルは特に何の感慨も持たないで見つめていた。
泣きそうに顔をゆがめる茶髪の少女を見ても、可哀相だなどと微塵も思わない。
魔法族は純粋に魔法族のみで構成されるべきだというホグワーツの創始者の一人の言葉を頑なに信じている、 というわけでもなかったが、魔法界の常識も何も知らずに入ってくるマグル生まれのホグワーツ生は邪魔でしょうがない。
古き伝統を重んじるどころか、マグル式の発想を練りこもうという彼らの考えには賛同できないばかりか吐き気がするほど嫌悪したいものだ。
「『穢れた血』だと!?よくもそんな事が言えるなっ」
泣き出してしまった少女を庇うように立ちはだかった男子生徒が怒りの所為だろうか、顔を真っ赤にして怒鳴る。
しかし言われた女子生徒はつん、と顎を上げて澄ました顔で相手を見やる。
「本当のことをいって何がいけないの?穢れた血、マグル生まれの下等な人間がよくもこの学校にいられるものだわ」
スリザリンの生徒の中に忍び笑いが起こる。
明らかに先ほどの少女に向けられた攻撃の刃を庇おうとした男子生徒は頭に血が昇りすぎたのか「このっ……!」と後に続かない言葉を必死に形に仕上げようとしているようだった。
リドルはそんなやり取りをスリザリンの輪の中心で冷めた気分で見ていた。
ふと、グリフィンドールの男子生徒と目があった。
怒り心頭といった感じで血走った目をした彼は、リドルの端正な造りの顔を見て一瞬怯むように怯えた表情をした。
感情の読めない、冷え切った紅い眸に遭遇してしまい、無意識に畏怖の念を抱いたのだろう。
大して面白いとも思わずに、しかし視線を逸らすこともせずにいれば、グリフィンドールの勇敢さを持ち合わせていたらしいその男子生徒ははっとしたようにリドルを見ると、勝ち誇ったかのようにその顔を歓喜に歪めた。
「マグル生まれの下等な人間?」
彼は先ほどこちらが言い放った言葉をそのまま繰り返す。
口許にはにやにやとした下品な笑み。
「何よ」
不快感を露にしながら少女が受けると、彼はちらりとリドルを見てこう言った。
「そこにいる奴もマグル生まれの穢れた血なんじゃないのかよ?違うのか?」
その一言にスリザリン生は愕然とする。
トム・マールヴォロ・リドルという生徒は優秀が故に全校生徒で知らない者はいないばかりか、校内の至る所で彼のあらゆる個人情報が流れ出してもいたのだ。
どんなに必死に食い止めようとしても人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、まるで隙間風のように僅かなほころびを見つけて噂は人々の間に広まっていくのだった。
そのことに対しては特に何も思いはしない。
ただ、意外に平静でいられる自分がいることに少し驚いているだけだった。
「なるほど。これは一本取られたね、ユーディール」
微笑を顔に張り付かせてリドルは少女を振り返る。
彼女は顔を真っ赤にしてグリフィンドールの少年を睨みつけていた。
それを見て、リドルは不思議に思う。
何故彼女はあんなに悔しそうなのか、と。
嘲笑の矢面に立っているのは彼女ではなく自分であるというのに。
「何をしているのですかっ」
いつまでも動かない二つの集団は目立つもので、不穏な空気を察した教師の一人が足早に駆けてくる。
それを合図に睨み合いを続けていたグリフィンドールとスリザリンの寮生達はぞろぞろと大広間に入っていった。
「気にするなトム」
歩き出したリドルに後ろから追いついてきた男子生徒が言う。
「奴ら、他の事では敵わないからあんな苦し紛れのことを言ったのさ」
ぽん、と軽く肩を叩いて彼はリドルを追い越していった。
立ち止まり、リドルは考える。

気にする?
一体何を?

人が吸い込まれるように扉の奥へ消えていく中、一人になっても立っていた。
傷つくはずがない。
あんなマグル生まれと一緒にいるような人間の言葉など欠片も価値のないものだ。
心が痛む、などとそんな事があるはずがない。


あってはならないのだ。







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完成日
2005/1/14