この身に宿る衝動を。
抑えることができない。




猫と夕焼け 中編



身の内に深く深く根付いた暗い炎がゆらりと揺れた。
失くしたはずの憎悪が甦り、内側からじわじわとリドルの心を焦がしてゆく。
嫌だ、と逃げ出そうとする自分がいるのに「それが本来のあるべき姿だと」戒め、諭す己がいるのもまた事実で。
こんな時は、傍に、いて欲しいと願うのに。
先ほど彼女に背を向けたのは他の誰でもなく自分自身だ。
相容れぬ矛盾した感情で、歪んだ醜い欲望で。
聖母のように清らかに微笑む彼女を壊してしまいたいと願いはじめたのはいつからだったのだろう?
その純粋さを尊び、その無垢さを呪った。
彼女へと向ける彼の心情はまるでメビウスの輪のようで。
いつの間にか、本人も知らない間に逆の方向へ裏返ってしまっている。
「何を……言っているんだ、僕は」
水を吸って肌に張り付いたシャツが不快だ。
雨は好きだが、今日ばかりは邪魔でしかなかった。
ぬかるんだ坂道を登ると、酷く後悔が押し寄せてきた。
「あんなことを言うつもりはなかったのに」
彼女を傷つけるつもりなんてなかったはずなのに。


階段の下から靴音が上がってきた。
「リドル?どうなさったのです、こんなところにお一人で立っていらっしゃるなんて」
続く柔らかな声音にようやく意識を深い思考の海から呼び覚ましたリドルははっとして顔を上げる。
その無防備な表情はあまりに普段の彼らしくなくて、は思わず驚いて瞳を瞬かせる。
隠し切れない動揺をそれでも必死に押し込めて、リドルはへ身体を向ける。
「何でもないよ。話はもう終わったの?」
近付いてくる彼女をその目で捉えながら、しかしどこか足元がおぼつかない。
「はい、この間から疑問に思っていたことを全てお聞きしてまいりましたから」
「そう」
どこか上の空のリドルの様子に気付いて、が心配そうに眉根を寄せる。
「本当にどうなさったのです?何かあったのですか」
何もない。
彼女に話すことなど何も、無い。
「何も……ないよ」
そう言っていつものように微笑んだつもりだった。
しかし失敗したようだ。
益々顔を曇らせてぎゅっと眉間にしわを寄せる彼女の白い肌を見ながら、リドルは足元から崩れ落ちていくような錯覚を覚えた。
それはまるでモノクロの美しい映画のようで。
どこまでも色の無い世界にたった一人、気付いてしまったかのように虚無だった。
彼女の白い肌がそうさせるのか。
彼女の長い黒髪がそうさせるのか。
どうしてだか、急に思い出してしまったのだ。

独りであるということを。

彼女が細い指先を伸ばして自分の額に触れようとしているのをまるで他人事のように眺めていた。
しかしその白が触れる寸前、リドルは身を強張らせて後ずさる。
「リドル……?」
驚いて呆然としたような表情をしているを見て、それでも彼女を美しいと思う。
初めて彼女を自分から拒否した、その事実を自ら認めることが咄嗟に出来ずに、気付けばローブの裾を翻していた。
「ごめん」
後に残る彼女を直視できずに、階段を一気に地下へと駆け下りる。
石壁に響くのは自分の靴音だけで彼女が追ってこないことに少なからず安堵した。


雨に濡れたまま自室に戻ると、そのまま壁にもたれて座り込んだ。
瞼の裏には子猫を抱いていた細い肩が焼きついて離れない。
あまりにも儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
あれではいつか壊れてしまう。
それを行うのが自分であるならば、いい。
しかし他の誰かがそれをしようとするのならば、僕はそいつを殺してでも彼女を守るだろう。
そうして彼女を捕らえて、閉じ込めて、自分だけのモノにしてしまえたならば。
そこまで考えてリドルは薄く嗤う。
無理だろう、そんな事は。
は多くの者に慕われている。
彼女の美しい容貌、上品な顔立ち、聡明な頭脳、そしての血筋に生まれた高貴さ。
東の魔法族を陰で束ねるの一族はイギリスでも有名だった。
純血を尊ぶ魔法族の名家の者ならば、その血族と何とかして近付きたいと画策するだろう。
それほどにもの生まれた家は有名で、その存在に意味があった。
しかし彼女が多くの人に好かれるのは決してそれだけが原因ではない。
きっと、であるから彼女はあんなにも大勢の人間に囲まれるのだろう。
そうしてリドルが一人ではないのは彼女が傍にいるからだ。
彼女のおまけとして、横に添えられているだけなのだ。
そんな事は十分承知している。
分かっていたはずだ。
光のような存在の彼女を今更羨んでも何にもならない。
彼女が居て、初めて世界に光が射し、色が生まれた。
それなのに彼女を妬ましいと思うことは許されない。
「は……は、は。弱いな、僕も」
膝に顔を埋めて泣きそうになりながらも嗤うことしか出来ない。
窓の外は雨だ。

「そこにいる奴もマグル生まれの穢れた血なんじゃないかよ?違うのか?」

甦る言の葉は、忘れようと何度思ってみてもその度に鮮明に刻まれる。
じわじわと、胸の内を蝕むように抉ってゆく。
傷ついているのではないと、思い込むことで自らを保っているのにもそろそろ限界がきていた。
彼女にぶつけた言葉を反芻しながら果てない嫌悪に呑まれていくが、それでもどうすればいいのか判らない。
に抱かれた痩せた子猫を思い出す。
どうしてあんな猫がこんな所にいるのだろう。
ここはあの猫がいるべき場所ではないのに。
そう、自分もあの猫と同様、もしかしたらここにいるべきではないのかもしれない。
そこまで思考が辿り着いた時、黒髪をゆるく振ってリドルは窓の外を睨む。
「弱いものは嫌いだ」
吐き捨てるように呟いた声は、誰もいない部屋の壁に吸い込まれる。
外はまだ雨が降っている。
昼間だというのに、この場所は酷く暗い。







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完成日 2005/1/19