「墓標はいりませんわ」
逝く間際の彼女は微笑んでいた。
近しい者だけが集められた部屋で、啜り泣きが絶えず聞こえる中。
透き通るように白い顔のまま、それでもは美しい。
「その代わりに木を植えてくださいな。夏にたくさん花をつける木を」
二つの瞳が見るのは遠い記憶の向こう側で。
思い返すのは独りきりが怖いと言って泣く愛しい少年のことで。
抗おうと、思えば叶わないこともない。
だけどそれでは駄目だ、とは判断した。
自分では彼に何もしてあげられないと、傍にいても何も遺せないと。
潔いほどに自らの運命を受け入れた。
「あの人がわたくしを探して迷っても、ちゃんと辿り着けるように」


終末へのプレリュード



“時守の魔女”と、銀色の髪をした女性は名乗った。
その名を知らないはずはない。
彼の魔女は遠く東の果てに住み、世界の律の一端を担う役目を負っている。
それでも、信じられない。
嘘だ、と小さく呟いたリドルに蓮は静かに言い渡す。

『そう思うなら、扉を見つけてみなさい』

大きな樫の一枚板で出来ている扉に彫られた百合の花。
ドアノブは黒漆に金の細工で、見上げれば唐草模様の透かしの入ったランプが頼りなく光っている。
その扉の前に立ち、リドルはしばし逡巡する。
あの魔女は扉を見つけろ、と言った。
ホグワーツで、彼女に、に関わる扉で思い浮かぶものは是しかなかった。
夜中に部屋を抜け出し、ゆっくりとした歩みでこの部屋まで辿り着いたリドルの脳裏に浮かんだのは色彩豊かに彩られた彼女との記憶。
新しい学年になってすでに三月が経つ。
アレンもユーディールも、のことを口にしなくなった。
二人共彼女は家の事情、ひいては国の事情になるのだが、その所為でイギリスに来られないのだと結論付けているらしかった。
今では時折ユーディールが「元気にしているかしら」との身を案じるのみで、後に会話は続かなかった。
勿論リドルは一度だって声に出して彼女の話をしていない。
声に出せば、時守の魔女に言われた全てを認めてしまいそうになりそうで怖かった。
まだ心のどこかで嘘だ、と信じたくないと思っていたかった。
手を。
繋いでいた。
前にこの廊下を歩いたときは彼女と。
満たされていたのだ。
確かにあの瞬間は倖せであったのだ。
幸福など渦中にある内は決してそうとは思わない、後に振り返ってみて初めてあの頃は、と思い返す。
人の記憶はいつも後ろばかりを向く。
ひゅん、と風を切る音に俯きがちだった顔を上げれば、銀色の不透明な人影が虚ろな視線でこちらを見下ろしていた。
「やあ、男爵」
「スリザリンの継承者か」
ふわりふわりと宙に浮かぶ血みどろ男爵は、ここへやって来たリドルの真意について考え込むようにぶつぶつと口の中で何事かを呟いていたが、やがて、
「……そうか。の娘は空へ還ったか」
小さく呟くと、銀色の血液にまみれた頭を一度緩慢な動作で揺さぶった。
「男爵、知って……?教えてくれ!どうしては!!」
耳ざとくその呟きを聞き取ったリドルが実体を持ち得ない血みどろ男爵に取りすがろうと手を伸ばす。
しかし当然のことながらその手は空しく空中を掻くだけで。
青褪めた顔色で絶望を垣間見たような表情のリドルに男爵はそれ以上何も言わずに壁の向こう側へ消えた。
残されたリドルは再び扉と相対する。
何度か躊躇うように伸ばした手を、今度こそ確りとドアノブに絡めると、扉は刹那、淡い光を発してゆっくりと開き始めた。
暗闇に閉ざされたままの部屋内へ入ると、音も無く扉は閉じた。
「ここに一体何が」
夜目に慣れないまま手探りで進もうとすると、突然部屋の四隅にあった燭台に一斉に火が燈る。
ぼう、と音を立てて光源となったオレンジ色の灯りが照らした先に紅い瞳が映したものは。


………」


思わず、呟いていた。
扉の正面に当たる壁に掛けられた一枚の大きな絵。
そこに描かれている女性はまさに今、恋焦がれている少女の姿そのもので。
見間違う筈などない。
どれほどこの腕で抱き、この手で肌を辿り、唇で触れたか判らない。
顔の形から肌の質感、髪の毛先に至るまで忘れるはずない。
それらはすべてがリドルの物だったのだ。
ふらり、とよろめいた足は肖像画へ向かっていた。
揺れる蝋燭の灯りの中、肖像画の女性はぴくりとも動かない。
傍に来てそのことに気付き、思い出す。


『そんなことをしても意味がないと考えたのです』

『肖像画の中の人物はどんなに似ていてもその人本人ではありませんもの。例え、 生きていた頃そのままで描かれていても、触れることが出来ないのなら意味がありませんでしょう』


彼女の言葉が胸に刺さる。
本当に痛むのは別の場所なのだが、リドルは左胸の辺りのシャツを握り締めた。
皺が濃く刻まれた白いシャツの胸元に、滴が落ちかかる。
声にならない声を上げて、リドルは壁の絵に凭れ落ちながら泣き崩れた。
絵の中の女性はではない。
良く似てはいるがしかしやはり違う。
『彼女』は動かない。
触れられない。
あたたかさを持ってリドルに微笑みかけてくれない。

だから、これはではない。

嗚咽が、喉の奥から漏れ始めた。
うまく呼吸が出来なくて苦しい。
その苦しさが益々涙を流れさせる。
どれほど願っても駄目なのだろうか。
力を、手に入れても叶わないことがあるのだろうか。
頭の中を駆け巡るのは彼女に再び逢う為の方法。
だがそのどれもが不完全なまま消え去ってゆく。
が隣にいない。
それはこんなに寒いものだったろうか。
今まで独りきりで過ごした時間の方が遥かに永いはずだ。
なのにこんなにも独りが怖いと怯えるのはどうしてだろう。
「助けて……」
両腕で自身を固く抱きしめながらリドルはその場に膝をついた。
「…助けて、……独りは厭だ…。ひとりは怖いんだ…」
今までどうやってこの空しさを埋めていたのだろう。
どうしてひとりきりで平気だなどと思えたのだろう。
どうして、あの時彼女の手を離したのだろう。
あんなに強く握って、二度と離さないと簡単に誓えたはずなのに。
後悔ばかりが去来する。



『憐れよのう』



ちょうど雲が切れて晴れた夜空に浮かぶ月、その光が部屋の中に静かに滑り込みやがてそれは人影を成す。
低く響く女の声がリドルの全身に絡みつく。
『愛する者を喪う悲しみ……妾には痛いほどよく判る』
長い袖と裾の広がらない見慣れぬ衣を纏った影は、徐々にはっきりと立体化し、青白い手指でリドルの首をゆるゆると絞め始めた。
『ましてや、それが己の所為であると……知ればおぬしはどれほど絶望に苛まれるのか』
月光から生まれた女は青白い。
しかし唇だけは血のように紅い。
同じく紅い双眸で、リドルは呼吸が儘ならないまま苦しげに歪めた顔で女を見上げようとする。
紅い口がにたり、と笑んだ。
『ああ、嬉しや。遂に妾の願いが叶う。これでようやく終わる』
「……あ…」
『のう、おぬしも嬉しかろう?鍵は既にその形を変えつつある。妾の望みが今度こそ叶うのじゃ』
長い髪で隠された女の顔だが、口元だけははっきりと笑みを刻んでいる。
肺が酸素を求めて軋み始めた。
それでも首にかかる手はゆるまないどころか、ゆっくりと確実に絞まってゆく。
『後は、おぬしが、サラザールの子孫であるおぬしがすること。罪を償う時が来たのだ。拒む権利などおぬしには無い』
首にかけられた手に一層の力が込められた瞬間、ぱさり、と女の顔を隠していた髪が一筋流れた。
月光の元、その顔を見たリドルは限界まで目を見開く。
蝋燭はいつのまにか全て消えていた。
青白い光が照らしたその姿は、絵の中の女性だったからだ。
リドルがそれに気付いたとき、女はふいに手を緩めた。
かたかたと震える身体を制御できない黒髪の少年の横に膝を折ると、耳元に囁きかける。
『……楽しみに、しておるぞ。終末の、その瞬間を』
其れは、その声は。


『リドル』


彼が愛する少女のモノと全く同じ音だった。


「あ、ああああああぁぁぁあぁあっ!?」
壊れたように頭を掻き毟りながら高く声を上げるリドルを蔑むように一瞥して、月影から現れた女性は静かに消えた。
後に残されたのは身を切るような静寂と、心を引き裂く為の真実のみで。
自制心を失った彼は喉が枯れるまで叫び続けた。
「トム」
リドルの肩を誰かが揺さぶる。
それでもリドルの口からは聲が鳴り止まない。
「トム!」
何度目かに強くなった語調と、揺さぶる力で、リドルはようやく自分の肩を掴む人物を見上げた。
其処はもうあの扉の内側ではなく、何の変哲も無いホグワーツの廊下の端だった。
そんな場所で泣声を上げていたリドルを正気に戻したのは長いふさふさした鳶色の髪と髭を蓄えた背の高い魔法使いだった。
「せ、んせい…」
掠れた声で呟くリドルにダンブルドアは当惑したように彼を見下ろした。
水色の瞳が迷いを見せている。
常にしたたかに生きていたリドルが、まるで世界の終わりのように泣いていたのだから当たり前だ。
「どうしたのだトム。こんな真夜中に、こんな場所で」
ダンブルドアはリドルの身体が氷のように冷え切っていることに気付くと、自分が羽織っていたガウンを脱いで彼にかけてやった。
「先生」
「何かね」
「先生は、絶望を味わったことはありますか」
俯いたままのリドルから発せられた問いに、今度こそダンブルドアは押し黙る。
「僕は、たった今、世界に見放されました」
しかしリドルは構わずに自分の話を続けていく。
「だから、僕は……世界を、僕を絶望の淵に突き落とした世界を憎む」
「トム、一体何がどうしたというのだ」
「別に。何もありませんよ。ただ、世界はどうしようもなく昏く、この先には何もないと。そう、思っただけです」
「……それで」
事情が全く飲み込めないまま、ダンブルドアは息を吸い込みなおして尋ねる。
「世界に見放されたおまえは一体どうするつもりなのかね」
そこでリドルは初めて顔を上げた。
彼の表情を見てダンブルドアの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
リドルは、嗤っていた。
禍々しく、そして至高に美しい笑みを美しい容貌に刻んでいた。
「さぁ、どうするんでしょう。でも多分、僕はこの世界なんかいらないと思うだろうから。壊してしまうのかもしれない」
「おまえがそうするのなら、わしは全身全霊をかけて止めるだろうよ」
老年の魔法使いがそう言うと、リドルはどこか安心したようにつかの間微笑んだ。
「できるものなら、そうしてみてください」



「いらっしゃい。ようこそ万屋懐古堂へ」
薄暗い部屋の奥から響く声にリドルは黙って顔を向けた。
いつかの魔女が精緻な細工の施された赤い布張りの寝椅子に寝そべり、煙管を咥えてこちらを見ている。
「そろそろ来る頃だと思っていたわ」
続けて、銀色の髪に菫色の瞳を持った美しい女性は言った。
紅をひいた形のよい唇がにこり、と微笑む。
「主、魔法を一つ所望する」
目深に被ったローブの下から光ばかりが強い紅の双眸が蓮を刺す。
それでも彼女は余裕のある態度で応対する。
「高くつくわよ?」
「かまわない。再び彼女に逢えるのなら、惜しくは無い」
固い決意の込められた言葉に蓮は小さく頭を振った。
かん、と煙管を煙草盆に打ちつけて中身を捨てると、すらりとその場に立ち上がる。
色々なものが所狭しと並べられた机らしき場所に手を突っ込み、やがて取り出したのは一対の指輪だった。
手のひらの上に転がし、桃色の爪先で弾きながら菫色の瞳がリドルを横目に見る。
「ホントウに、心は変わらないのね?」
「二度も訊くな」
「ならアナタにこれを。その揺るぎない覚悟と信念が発動条件よ」
手渡された二つの指輪を見下ろして、リドルはそれらを懐に仕舞うと、魔女を再び正面から捉える。
「代償は?」
「ツケとくわ。あたしが返して欲しいと思った時に取りに行くから。それまではアナタに貸しておいてあげる」
「そうか。世話になったな」
踵を返して店から出て行くその背を見送り蓮は再び寝椅子に寝転ぶ。
煙管に新たに葉を詰め、指で弾いて火を点けると肺の奥底まで煙を吸い込んだ。
ぷかり、と白い輪を頭上に浮かべ、蓮は独り言を呟く。
の娘は成人に達することなく儚くなる。龍の花嫁になるために空へ昇る。それがあの子の運命だったのよ」
ふぅーと、深く息をついた。
埃っぽい空気が気管に入り込み、軽く咳き込みそうになる。
呟きは煙と共に空気に溶けた。




「どうやったって、死んだ人には逢えないのにね」







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完成日
2005/10/22