永遠に果たされることのない約束。
最初で最後の優しい嘘。
彼女の願いは残酷にからみつき、ぬるま湯のように心地良い空間で徐々に彼を蝕む。
想いは二度と伝わらず、声すらも届かない。
想い、出ずる日
夏のよく晴れた日だった。
どんな絵の具を溶かしても足りないほどに鮮やかな蒼い空。
降り注ぐ苛烈な光は地上にある全ての生命力を奪い去ろうとしているかのようで。
その日はいつも静かなその地が、より一層静けさに包まれていた。
大きな屋敷だ。
禁域とされる雄大な森に抱え込まれるようにして建つその家はの物だった。
四方三里とされるその敷地内、一番北に位置する母屋では、人の気配はあるがひっそりとしていた。
古びているがよく磨かれた床や柱は黒光りして、新しいものにはない風格を備えている。
広い畳敷きの一室に、絹の布団に横たわる細い肢体があった。
艶の欠けた黒髪がそこらに散らばり、紙のように白い顔では唇の赤の鮮やかさだけがやけに目に付く。
細く浅く、ゆっくりと繰り返される呼吸は一見しただけでは判別しづらく、傍目には人形が寝かされているようにすら見える。
ただ呼吸の度に痩せた胸が合わせてかすかに上下に動くことだけが、彼女を生きた人間だと証明していた。
うつろに開かれた瞳は天井を見上げている。
その瞳が人の気配を感じて外へ続く障子戸の方へ向けられた。
小さな衣擦れの音と共に現れた影が、戸の向こう側で腰を落とした。
「姫様、蓮様がいらっしゃいました」
「お通ししてくださいな」
ほとんどかすれた声で彼女は答え、褥の上に起き上がろうとしてそして失敗した。
障子戸を開けた女性が主のそんな様子を見て慌てて駆け寄ってくる。
背を支えられ、丸めた座布団を腰に敷いてようやく起き上がることができた。
そこまで弱っていた自分の身体に驚き、そして仕方ないことだと自嘲の笑みを手伝ってくれた女性へ向けると、
生まれる前からこの屋敷に勤めているという女性は堪えきれないといった様子で目元を着物の袖で抑え、顔を背けた。
これまでいつも気丈に自分を励まし、時には叱ってくれた彼女のそんな様子を見るのは初めてで、それでも何も言う言葉が見つからなくてただ小さく「ありがとう」と告げることしか出来なかった。
部屋を出て行った彼女の背を見送っていた蓮は、視線を部屋の中央に敷かれた布団の上の少女に移した。
黒髪に、黒い瞳の彼女の名は・。
この夏まで遠くイギリスの地にある魔法学校に特待の留学生として在校していた。
美しい面立ちの少女だったが、床に伏せるようになってひと月が経ち、痩せてしまった所為かかえってその美しさが痛々しく際立つ。
そんな彼女の様子に痛々しく微笑みながら蓮は枕元に正座する。
今日の彼女の出で立ちは黒地に白で百合が線だけ染め抜かれている着物だ。
帯も黒で唯一帯止めの赤いガラス玉だけが彩りを主張している。
一筋の乱れもなく結い上げられた銀髪と、菫色の瞳。
「来たわよ」
「はい」
遠くで鳥が鳴いている。
外は快晴。
この重苦しい雰囲気の部屋と無限に広がる空とを隔てるのはたった一枚の紙の戸だけだ。
それでももはやは自力で外へ赴くことすら儘ならないほどに弱っていた。
血管が薄く透けて見える腕を見下ろして、蓮は判っていたこととはいえ憂いをため息に混ぜずにはいられなかった。
「悲しまないでくださいな」
そんな蓮の心情を聡く察して、が微笑んだ。
けれどその笑みが逆に余計に蓮の心を突く。
「無理な相談ね」
それでも無理矢理口の端を吊り上げて、できそこなった笑みを刻み声だけはせめて気丈に振舞えるようにと、震えそうになる自分を叱咤する。
永い時を生に縛られて生きてきた蓮にとって、ここ数百年の内で最も親しくなった友人。
それがだ。
その彼女が、今将に黄泉路へ旅立とうとしている。
「何回同じ場面に遭っても慣れないわ。今回はアナタだっていうのも相当堪えるのよ」
結局笑うことに失敗した蓮は、不器用に痩せ細ったの手を自分の手で包み込んだ。
「ごめんなさい」
「謝らないで。怒るわよ」
蓮の手の中のの手は驚くほど冷たい。
「……言ったの?」
庭の鹿威しが高い音を立てる。
菫色の瞳を向ければ、は黙って首を横に振る。
「わたくしが何も言わずにいなくなったら、あの人は怒るかしら」
彼女の小さな問いかけに蓮は少し考え込む。
彼女の言う『彼』を脳裏に思い描き、結論に至るとゆったりと微笑んだ。
「そうねぇ、怒って泣いて、わめいて物に当り散らすかもしれないわね」
「うふふ。そうですわね。あの人は本当に、子供みたいに我儘だから」
蓮の答えにも微笑み、可笑しそうに肩を震わせた。
『彼』のことを話す彼女は本当に嬉しそうで、蓮はこの日初めて見たの憂いの一切ない心からの笑顔を眩しそうに眺める。
「それでも何も言わないの?」
「言いませんわ。だってわたくしはあの人の救いにはなれないのですもの。わたくしの役目は鍵を渡すこと。それが終われば朽ち果てる運命なのです」
きっぱりと、迷いなく答えるに蓮はそれでも訊かずにはいられない。
「ほんとうに、それでいいの?」
重ねて問われて、今度は軽く押し黙る。
その沈黙の数だけ、に未練があることが手に取るように分かってしまう。
なのにどうすることもできないもどかしさが蓮を苦しめる。
東国にその人あり、と謳われた“時守の魔女”であるはずの自分は、しかしこんなにも無力だ。
「……よいのです。わたくしに定められた途はそれ以外にないのですから」
迷って、苦しんで、哀しみに胸を焦がしても己の取るべき道を違えようとしない。
目の前の少女はこんなにも華奢であるのに、強い。
「駄目ね。どれだけ長生きしてもアナタみたいに強くはなれないわ」
瞳に涙を浮かべ、友人が微笑もうとするのをは穏やかに受け止める。
「わたくしのお願い、聞いてくださいね」
「ええ。任せて頂戴。アナタの最期の願いだもの」
「代償は?」
「ツケておくわ。次に会った時に返してちょうだい」
「わかりましたわ」
軽くふざけあって、そうして暫し黙り込む。
視線をつい、と明るい方へ転じた蓮が外からこちらの様子を伺う気配に気付き、立って障子戸を開ける。
「いらっしゃい、春憲。大好きなお姉様とお話したいんでしょ」
戸の外側でびくり、と肩を大きく震わせたのはまだ小さな子供で。
黒髪に、黒い瞳。
何処かに似ている。
その春憲は躊躇うようにちらり、と部屋を覗き込み、布団の上で微笑む姉の姿を認めると駆け寄って細い腰に抱きついた。
「姉上!」
「ごめんなさいね、春憲さん。あなたに絵本を読んで差し上げる約束をしましたのに」
「ううん、いい。いらない!姉上が今日もここにいるならがまんする」
切実に訴える春憲は、事情を一切知らない。
だが周囲の空気で幼い子供なりに敏感に察知したのだろう。
優しくて大好きな姉がもうそんなに長くないことを。
「今はいらないから、だからいつか。姉上が元気になったら、そうしたら、約束守って。約束して!」
「約束に約束するの?ふふ、二重契約ね」
「本当ですわね。破れば痛いしっぺ返しが来そうですわ」
幼い弟とゆびきりをしながら、の意識は遠く彼の地にいる『彼』へ想いを馳せていた。
リドル、と。
最期に彼女が声なく呼んだのは愛しい少年の名だった。
九月一日、キングズ・クロス駅九と四分の三番線にて。
たった今耳に入れたばかりの言葉が理解できなくて、リドルは目の前に立つ銀色の髪の女性に聞き返していた。
彼女、蓮は小さく息をついた後、もう一度静かな水面に波紋を落とすが如く繰り返す。
「あの子は、は来ないわよ」
その瞬間、トム・マールヴォロ・リドルの世界から彩が消え去った。
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完成日
2005/10/15