散歩
こつん、と誰かが窓を叩いた。
グリフィンドールの寮は高い塔のてっぺんにあるから決して外から歩いてきた人間が「やぁこんばんは」なんてことはない。
ランプの灯りがちらちらと揺らしながら部屋を照らす。
同室のリリーはシャワーを浴びている最中だ。
読んでいた本から顔を上げて、フクロウでも迷い込んだのかと思いつつ窓の側へ近寄る。
「」
外から呼ぶ声は確かにシリウスのものだった。
窓を開けるとやはりシリウスが箒に乗って、窓枠に手を掛けてこちらに身を乗り出してくる。
「リリーは?」
「シャワー浴びてるよ」
「そりゃあいい。ジェームズが喜ぶ」
が答えると、シリウスがにやりと笑った。
何がジェームズを喜ばせるのかいまいち理解できなかったが首をかしげていると、シリウスが悪戯する子供のように灰色の瞳を煌めかせた。
「今からちょっと散歩行くんだ。付き合えよ」
「お散歩?」
「そ。早く、リリーが戻ってきたらうるさいからな」
急かすシリウスにこくんとうなずいて、は窓枠に手をかけた。
向こう側からシリウスが箒に引っ張り上げてくれる。
「おし、行くぞ。しっかりつかまってろよ」
の両腕を自分の腰に回させて、シリウスは一気に上昇した。
禁じられた森の向こう側に二人の影が消えた頃、湯上りで肌を薔薇色に染めたリリーが戻ってきた。
「ふぅ……さっぱりした。あら、?何処に行ったのかしら?」
開けっ放しだった窓を不思議そうに眺めながら彼女は自慢の赤毛を乾かし始めた。
風を切って飛ぶ。
冬の始まりの空気は乾いていて、大気が澄んでいる為に普段は見逃してしまうほどかすかな星明りも見ることができた。
きらきらと瞬く星々の間を縫うように箒は進む。
「どこまで行くの〜?」
風の音で遮られるためにいつもより大きな声で会話をしなくてはならない。
自分の耳元でそう訊くにシリウスは顔だけ振り返って「行けるとこまで」と答えた。
「ふうん」
何も疑わずには星空へと目を移す。
シリウスも何も話そうとせずに、そのまましばらく無言で二人は飛んだ。
夜の森はなんだかそれ自体が意識を持っているようだ。
ざわざわと、昼間なら心地よく聞こえるはずの葉擦れの音も、闇の中であるだけで不気味に聞こえる。
星の明かりは小さすぎて、かえって心許ない気分にさせる。
月は無い。
夕方に西の空に細く白い月があったことを思い出す。
『弓張り月』
「何か言ったか?」
呟かれたのは日本語であったので、シリウスには理解できずにただの音として耳を通り過ぎる。
ゆるく頭をふって、は「何でもないよ」と微笑んだ。
大きな木の梢に二人で並んで座り、湖を眺める。
湖面は僅かな星の光を精一杯反射していたけれど、月夜に比べるとあまりにも頼りない輝きだった。
「月が出てりゃ良かったのにな」
「満月だったらシリウスはここにはいないでしょ」
「そりゃ……って、何で知ってるんだ!?」
さらりとの口からシリウス達、ホグワーツの悪戯仕掛人達の秘密をほのめかすような発言が出た。
それがあまりにも自然な口調だったから彼も思わず答えかけてしまって、慌てて気付くと隣の少女を見下ろす。
知らぬ内に射抜くように鋭くなった灰色の瞳に映るのは、いつもと何ら変わりの無い様子の黒髪の少女。
「さあ、何ででしょ?」
ひとさしゆびを唇にあてて、言う彼女は何処か神秘めいた匂いを漂わせていた。
よく磨かれた、鋭利な刃物のような鋭さ。
触れれば何もかも切り裂いてしまいそうな空気。
戦慄さえ覚えるその雰囲気に呑まれて、シリウスは知らず知らず、唾を呑み込んでいた。
しかしソレは刹那の出来事で。
ふわり、とをとりまく空気が瞬時にやわらかくなった。
「シリウスが、大きなワンコになるのだって知ってるよ」
「ワンコはやめろ」
条件反射のようにつっこんでしまい、シリウスは自分で自分がすこし悲しくなった。
「うん。やめる。シリウスはカッコつけーだもんね」
にこりとは笑う。
その話し方にいつものようなゆるさが戻っていて、シリウスはそれ以上言及するのをやめてしまった。
触れてはいけない、そんな気がしたからだ。
しかし言うべきことは言っておかなければならない。
「待て。誰が言ってたそんなこと」
「うーんと、リーマスかな?」
「あのヤロウ、余計なことを吹き込みやがって……」
先ほどまであった空気は何処かへ行ってしまったかのようにボケるにつっこむシリウスはほっとしての頭をくしゃっと撫でる。
「それで」
「それで?」
黒く澄んだ光を放つ双眸を向けてくるにシリウスは聞き返す。
「お話なぁに?」
「あー……」
ここへを連れてきた当初の目的をようやく思い出して、シリウスは間抜けな声を出す。
昼間、ジェームズとあまりにも仲良くするので腹を立てていたのだが、二人っきりになるとそんなことどうでも良くなっていた。
「は……あー、うん」
何度も口を開いては閉じ、その度に呼ばれる名前に律儀に返事を返してくれる。
そんな彼女を好きなのだと改めて思う。
隣にがいる。
自分の他に彼女の瞳に映る人間はいない。
それだけで満たされ、ささくれだった心は潤ってゆく。
なんて子供じみた独占欲なのだろう。
リーマスが呆れるのも無理は無い。
「は」
「うん?」
「はジェームズのことをどう思ってるんだ?」
意を決して言ったものの、口に出してから「しまった」と思った。
こんな聞き方はマズイ。
コレでは自分の嫉妬が丸出しではないか。
好きな子の前ではカッコつけたいお年頃のシリウスは内心で激しく後悔する。
ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜてうつむく、そんな様子のシリウスをよそに、
は少し考え込むと言葉を選ぶようにゆっくりと瞳を閉じる。
「ジェームズはね、お兄ちゃんみたいな人」
の答えにうなだれていたシリウスが顔を上げる。
「手が、ね。似てるの。あったかい、やさしい匂いがする」
「似てるって、誰に?」
訊くシリウスにはちょっと困ったように首をかしげる。
黒曜石の瞳に郷愁が宿るのを見てシリウスはかすかに顔を曇らせる。
「もうちょっと飛ぼう?」
やがて箒を指差してそう言い、シリウスは戸惑いながらも彼女を後ろに乗せて再び飛び上がった。
「お兄ちゃんみたいだなーって思ってるって言ったでしょ?」
湖の上を飛びながらはシリウスの背中に話しかける。
「ジェームズにちょっと似てるかなぁ?わたしにもお兄ちゃんがいるから」
「あんな奴に似てるって、いいのか?それで」
何気に親友に対して失礼な発言をしながらシリウスは前を見て飛び続ける。
背中に彼女の笑う気配を感じてほっとしながら水面ぎりぎりに箒を寄せる。
「ううん。全然似てない」
「何だそりゃ」
「本当はね、知らないから分からないの」
目を伏せて、静かに言った。
「え?」
ばしゃり、と水がはねる音がしてよく聞こえなかった。
もう一度聞こうとシリウスが口を開きかけると、ぐいとローブのフードを引っ張られた。
「シリウス、シリウス。見て見てすごーい!」
いつになく興奮した様子のの調子にほんの少し驚いて振り返る。
だが目の前に飛び込んできたモノがあまりにも衝撃過ぎた為、彼の思考はしばし停止する。
星達のわずかな光を受けて輝く白い体。
すべすべしてそうな、その弾力のある質感。
こちらに伸びてくるいくつもの手に数え切れないほどある、吸盤。
「い、か―――――――――っ!?」
普段クールで通しているシリウスが目を見開いて絶叫する。
「湖の主と噂される伝説の巨大イカさんだよ〜推定壱千歳なりー。趣味は日光浴、好きなものはゆで卵」
箒の後ろに絡みついた触手の吸盤を指先でつつきながらのほほんとが巨大イカの代わりに自己紹介している。
「そんなこと言ってる場合かーっ!!」
「トーストはアプリコットジャムが最近のブームだって」
「イカと会話すんな!!」
シリウスが必死になってイカの魔の手から逃れようと箒を握る手に力を込めているのに、
後ろに乗っているはどうやってかは知らないが暢気にイカと会話中である。
「水の中も気持ちいいからおいで〜だって」
「いくら夏が近いからってこんな日に水遊びしたら風邪ひくだろっ!丁重に謹んで絶対にお断りしろ!!」
後ろを振り返る余裕も無く大声でシリウスは言うが、彼の努力も空しく、二人を乗せた箒は巨大イカの手によって湖の中へご招待されてしまった。
所詮一介の人間が敵う相手ではなかったのである。
相手はイカであるのだが。
「きゃははははは」
「笑うな――――っ!!!!」
星のない夜に、湖では二人の男女の楽しそうな―一方は明らかに機嫌を損ねているが―声が響いた。
巨大イカの触手がきらり、と光った。
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完成日
2004/12/3