ここに在って無いもの
時々遠くを見ていることがあるな、とジェームズは思った。
今は呪文学の授業中でピーターに失敗した魔法をかけられたフリットウィック先生は不幸にも教室の上空、生徒達の頭の上を悲鳴をあげながら行ったり来たりしている。
おかげで教室は大混乱。
授業どころではない。
女生徒達の「きゃあ」という短く高い悲鳴が先生が壁にぶつかる度に、そして自分達の頭上すれすれを滑空する度に教室のあちこちで上がる。
そんな大騒ぎの中ではぼんやりと窓の外を見ている。
彼女の耳には教室の喧騒は届いていないようで、フリットウィック先生と共に飛び交う様々な物―例えばクッションだとか誰かのインク壷だとか、踵の潰れた靴片方とか―が時折の横顔を目掛けて猛スピードで接近したりしているのだが、リリーが鬼のように形相を変化させながら、リーマスがどこまでもにこやかな笑顔で杖を動かして撃退している。
二人にとって飛んでくる物が何であってもに当たりさえしなければ構わないらしく、杖を振る方向は実に適当だったので、傍に座っているジェームズとシリウスは時々机の下に頭を引っ込めたりして避難しなければならなかった。
「うーん、心ここにあらず、かな?」
飛んできた教科書の角を首を反らすことで避けたジェームズがしみじみと呟く。
「はぁ?何、がっ!?」
彼の言葉を聞きつけてシリウスが返事をする瞬間に何故だか底のへこんだバケツが飛んできたので、持ち前の反射神経を使ってぎりぎりで避ける。
そんなシリウスにはお構いなしのジェームズは榛色の瞳を愛するリリーの鬼神のような形相からさらに奥、黒髪の少女へと向けていた。
いつものように眠たげに半分閉じられた漆黒の瞳は、周囲の騒ぎを無視してひたすらに窓の外へ注がれている。
彼女の瞳の色はこちらでは全く無いとも言えないが珍しい色ではあったので、ジェームズは秘かに気に入っていた。
夜闇よりも尚濃いその瞳に映るモノに興味があった。
もちろん、自分を兄のように慕ってくれるがその眸で追う『異性』にも十分、興味がある。
「その辺のだったら適当にしちゃっていいかなぁ?あ、でもリリーかリーマスが先に片付けるか」
チョークの粉をたっぷり吸い込んだ黒板消しが飛んでくるので机の下に隠れる。
「ジェームズ俺の靴知らねーか!?」
隣の席から親友の声がするので、ジェームズはひょいと机の下から顔を覗かせて一言、「知らないよ」と返す。
直後、そのジェームズの鼻先を踵の潰れた何処かで見たような傷の付いた靴が飛んでいった。
その行方を目で追いながらさっき言った一言に付け足す。
「あーシリウス、知らないっていうのは撤回するよ。今僕の目の前を飛んで行った」
「本当かっ?つうか見たんなら捕まえてくれよ!」
何だか必死に親友が言うので、誰が持ち込んだのか知らないが、ヒキガエルがげこげこ言いながら飛び回る下で眼鏡の奥の榛色を瞬かせて彼は隣の親友の足元を覗く。
「あー」
途端、何故シリウスがあれほど必死なのかが瞬時に納得できて、ジェームズは何処か遠い目になりながらも気を取り直して眩いばかりの笑顔でぐっと右手の親指を突き出す。
「大丈夫!後でリーマスにでも繕ってもらえばいいよ」
「アホか!!原型を留めないで返ってくるだろーが!」
「じゃあピーターとか」
「無難な所だけど気持ち的にちょっと嫌だからやめとく」
「それピーターが聞いたら泣くよ。うーん、リリーは無理だろうな。そういうの苦手そう」
最愛の彼女の意外に不器用な一面を思い出しながらジェームズは考え込む。
「でもそんな所も可愛いんだけどねっ!!」
無駄にきらきらした表情で恋人への愛を全開に叫ぶジェームズをシリウスはさりげなく無視した。
そのリリーはと言えば、今まさに彼女の保護対象である少女の頭に張り付きそうな勢いで飛び掛ってきたヒキガエルを視線だけで睨み殺せそうな勢いで凝視した挙句、杖を振るって教室の反対側へ飛ばし返した所だった。
とてもじゃないがジェームズが言うような『可愛い』という言葉はその迫力の中に見出せない。
「全く、どうしてこんなことになったのかしら。に当たったらどうするつもりなの」
「後でピーターにはきっちりお説教しとくよ。それよりもいい加減落ち着く頃なんだけどな」
ぶつぶつ呟く赤毛の美少女にのんびりと答えるのは鳶色の髪の見た目だけは温和な少年だ。
「う〜ん、今日はもう授業は無理かな?」
阿鼻叫喚、地獄絵図とまではいかないが、教室の惨状は目に余るものがあり、この状態で授業を続ける教師がいたらその根性と熱意を褒め称えて拍手をして万歳三唱ぐらいはやってもいいかもしれない。
そんなことを暢気に考えながらもリーマスは杖を振って小汚い誰かの靴を思いっきり教室の壁に向けて飛ばす。
すぐ傍で知った声が「あぁっ俺の靴!!」とか言っていたような気がしたが聞かなかったことにした。
「いっちゃった」
ふいにその場の雰囲気などさっぱり無視した声が聞こえた。
教室の反対側に乱暴に飛ばした靴の行方を何となく目で追っていたリーマスはその声の主を振り返って見る。
「?何が行っちゃったの?」
そういえば今日は朝から彼女の声を聞いていなかったような気がするなーなどと思い返しながらリーマスは黒髪の少女にぶつかりそうだった野球ボールを手でがしっと掴んで止めた。
「あ、僕のボール。いつの間に飛んでいったんだろう」
今度もすぐ傍で、さっきとは違うがこれもよく知った声がそう言ったので、ぽいと投げて返してやる。
「鳥でも見ていたのかしら」
ずっと窓の外だったの視線の行方を大して気にもとめないでリリーは自分の荷物との荷物を片付け始める。
「授業おしまい?」
そこでようやくは隣のリリーに気付いて顔をそちらに向ける。
ついでにぐちゃぐちゃになってしまった教室と、疲れ果てたクラスメイトやフリットウィック先生を見て首をかしげる。
「みんなどうしたの?」
きょとんとした様子の彼女を見てリーマスは「本当に気付いてなかったんだなーすごいなーある意味才能だよなー」と妙に感心してしまい、リリーは丁度鳴り響いた終業の鐘の音に合わせてを立たせた。
「後のことは頼れる男の子達に任せてわたし達は部屋に戻りましょ」
「酷いなリリー。こういう時だけ男女同権を無視するんだ」
リーマスが微苦笑しながら言うが、彼女はつんと顎を上げて取り澄ます。
「あら、こういう時こそしっかりしなくちゃ駄目でしょう?頼れるってコトをアピールするいい機会じゃない」
だがその頼れる男達というのは、気絶した先生に半泣きで謝るこの騒動の原因を作った犯人だったり、靴の片方が飛んでいったまま手元に帰ってこなくって教室の隅々まで捜し歩く黒髪のいい所の坊ちゃんだったり、
始めっから片付けなんてしらばっくれるつもりの(そもそも彼が手伝ってまともに片付いた試しなどはないのだが)いつもにこにこ笑顔の少年だったりするので期待しない方がいい事は明白だった。
放っとくと立ったままでも寝てしまいそうなの腕をしっかりつかんでリリーは教室の外に出た。
廊下をグリフィンドール寮の方向へ歩き出しながら顔だけ振り返って訊く。
「貴方は片付けに参加しなくてもいいの?ジェームズ」
後ろにさりげなく付いてきていたくしゃくしゃな黒髪の一応恋人に緑色の瞳を向ければ、彼は困ったように頬をかきながらも悪びれずに断言する。
「リーマスがシリウスにやらせるからいいんだよ」
その一言で目の前の恋人を含む悪戯仕掛人達のヒエラルキーが一瞬で想像出来てしまい、リリーは興味深そうにまじまじとジェームズを見た。
追いついてきたジェームズは自分の荷物を肩にかけ、そのままを挟んで三人並ぶ形で階段を上る。
「ねぇさっきは何を見ていたの」
ほとんどリリーに引きずられるような形で歩いているに聞くと、彼女は一瞬ぼんやりとした闇色の瞳をジェームズに向け、何か逡巡した後ぽつり、と言った。
「人、だったヒト」
「?」
その返答にリリーは首をかしげるが、ジェームズは構わずに先を促す。
「今は人じゃないってこと?」
「そう。今は、もう生きてないから。ここに在って、無いものだから」
虚ろな瞳でそう言う彼女の横顔はどこか諦めにも似た雰囲気が漂っていた。
にそんな顔をさせているのが明らかに自分の言葉が原因だと分かっている。
ジェームズは後でリリーに怒られるかな、と小さく微笑しながらも、しかし目の前に未知の世界が広がろうとしている、その好奇心には逆らえなかった。
天才だ、秀才だと勉強や魔術の腕を誉めそやされても彼は退屈で怠惰な日常を送っていた。
一目見て運命を感じた赤毛の美少女を恋人という位置に何とかして持ってきた今もそうだ。
時折耐えようの無い空虚が心を掠める。
だからその穴を埋めるのであれば、ソレが何であっても構わなかった。
「幽霊ってことかな?でもゴーストは目に見えるよね」
頭一つ半ほども違う隣の少女を見下ろすが、いつの間にか彼女の虚ろさは消え失せていた。
「あはは〜ジェームズは知りたがり屋さんだねー」
にへらーと締まりなく笑う彼女に合わせてへらへら笑えば、リリーに冷ややかな目で見られてしまった。
そのまま会話は他愛のない話題へ移り、談話室に着いて女子寮への階段を上っていく二人を見送ると、ジェームズはこっそり肩を竦めた。
「残念、気付かれちゃったな。は鋭いなー」
恐らくシリウス辺りが聞いたら「何言ってんだ、アイツのどこが鋭いんだよ」と一笑に付されるであろう台詞を呟きながら、彼は暖炉の正面にある指定席ともいっても過言ではないふかふかしたソファにどっかりと腰を下ろす。
見た目ほどが鈍くないことをジェームズは知っている。
そしてどうして自分を彼女が慕ってくれるのかも薄々は勘付いていた。
似ているからだ。
とジェームズは抱える虚に気付いている。
恐らくほとんどの人が持っていても気付かずに過ごすであろう、その空しさの存在に気付いてしまっているのだ。
何気ない日常において、自身の抱える虚を退屈として持て余す。
多くの友人に囲まれていても、無二の親友と笑い合っていても、最愛の恋人の傍に居ても、時折言いようの無い孤独が心を締め付ける。
きっと其れは、彼女も一緒だ。
だからこそは自室に戻る前、すれ違った一瞬にリリーには聞こえないように囁いたのだ。
「ジェームズはこっちに来ちゃだめだよ」
にこり、とまるで散る瞬間の花のように淡く微笑んだ。
何もかもを察してそう言ったのだろう。
けれどジェームズは消え入りそうなの表情に気を取られていた。
この顔をシリウスやリーマスは知っているのだろうか、と東洋の神秘的な顔立ちをした少女の後姿をぼんやりと見送った。
「ここに在って無いもの、か……」
まるで自分の存在のようだ、と眼鏡の奥の榛色が自嘲の笑みに細くなる。
こちらに来てはいけないとは言った。
だから彼女はもうあちら側にいるのだろう。
「僕もいつかは行くのかな。でもそれじゃきっとリリーが泣くな。それは嫌だなぁ」
ソファの背凭れに全体重を預けるようにして談話室の天井を見上げる。
ゆっくりと両目を閉じると、壁の向こう側から聞き慣れた声がした。
そういえばシリウスの靴下をどうにかしなきゃなぁ、とのんびりと考えながらジェームズは口許に笑みを浮かべる。
多分、絶対にシリウスは怒っている。
リーマスに命じられて教室の後片付けをしたことや、こっそり抜け出した自分に対してそりゃーもう怒り心頭だろう。
親友達のやり取りが容易に想像できてしまい、口許の笑みが益々深まる。
「まだ大丈夫そうだよ、僕は」
誰にともなく呟いて、ジェームズは近付いてくる乱暴な足音の主にさて何と言おうか、とそんなことを考えた。
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完成日
2005/1/28