「あら、珍しい。お久しぶりね」
薄暗い室内から響く艶やかな女性の声を耳にして、男は目深に被ったフードの下で唇の端をにぃと三日月に吊り上げる。
ごちゃごちゃと色々な物が所狭しと並べられた室内はかろうじて人一人が通れるほどの隙間しか残されていない。
その隙間を上手に縫って、彼は足を進める。
埃が外気に触れて空中に舞う。
「随分と散らかっているな」
精緻な細工の施された赤い布張りの寝椅子。
その肘掛に凭れるようにして寝そべる女性に対して深くかぶったローブの下から視線を向ければ、彼女は笑った。
「アナタがそんな事気にするなんてねぇ。しょうがないじゃないの。今はお掃除する人がいないのだもの。まさかあたしにやれって言うの?」
紅をはいた綺麗な形の唇を可笑しそうに歪めて彼女は菫色の瞳でローブに隠れた彼の素顔を見据える。
「相変わらずあの小僧を飼っているのか」
「小僧だなんて、アナタなんかよりずうっと長生きよ?なぁに?気になるの?」
揶揄めいた言葉を向けられて、男は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
その様子に彼女は片目をすがめて先ほどより随分と可笑しそうにまた、嗤う。
「でも駄目よ。今のアナタはあの子には逢えないの。これはあの子の前のあの子が決めたことだもの。アナタは守らなくてはならないわ」
「分かっている……」
感情を押さえ込んだかのようなその物言いに彼女は満足そうに頷くと、ローブの下の紅い瞳を自身の菫色で真っ直ぐに射した。
「じきに扉が開くわ。それまではアナタは想い出とでも戯れていなさいな」
容赦の無い苛烈な光に当てられて、男は紅い双眸を不機嫌そうに背ける。
蝶と蓮が透かしになっている欄間から複雑で、だからこそ美しい形の影が落ちている。
それをしばらく眺めていたが、やがて苛々と歯噛みしながら再び視線を彼女の方へ向けた。
其れを見て、彼女は毒気の無い大輪の花のようにあでやかに微笑む。
「それじゃあお商売を始めましょうか。ようこそ『万屋懐古堂』へ。今日の用件は何かしら、闇の帝王サマ?」



ブラックリストに追加



季節は初夏を幾分か過ぎた頃である。
そろそろ本格的に暑くなってきて、照りつける日差しに容赦がなくなってくると、ホグワーツはどこかそわそわし始める。
原因は目の前に迫った夏季長期休暇であり、生徒達はそれぞれ友人達と楽しい計画を立てながらその日を指折り数えて待っているのである。
「でーもその前には試験があるんやでー?」
夏休みの素晴らしさを滔々と語っていたなんだかやけに傷だらけなジェームズの動きを、キョウは繕い物をしながらこの一言でぴたりと止めた。
「で、どないしたん?そのぼろぼろなお姿は」
針と糸は止まることなく動き続け、傍で見ていたリーマスがぱちぱちと拍手を彼に送る。
ジェームズの頬には引っかいた痕、眼鏡はレンズにひびが入りローブの裾はほつれている。
髪はいつもより三割増でぼさぼさだ。
その姿を見れば答えを聞かなくても大体は分かるのだがあえて聞いてやる。
すると眼鏡の奥の榛色の瞳にみるみる涙がたまってゆく。
グリフィンドール寮談話室のふかふかしたソファの上に立ち上がって夏休みのあれこれを十分近く語っていたジェームズは、 そこから飛び降りて向かい側のソファに座って穴の空いた靴下を丁寧に素早く完璧に繕う亜麻色の髪の少年に泣きついた。
「聞いてよキョウ〜リリーが口きいてくれないんだよ〜もう三日も!三日もリリーは僕に話しかけてくれないんだよ!?」
がばり、とキョウの首に抱きつくホグワーツの主席をシリウスが気持ち悪いものでも見るかのように少し青ざめた顔で見ている。
しかし抱きつかれたキョウの方は全く気にする素振りも見せず、淡々と手元の作業に集中しているようで、
「そら可哀相やなーおーよしよし。でも今は邪魔やねん。顔に穴あけたなかったら離れとき」
おざなりに慰め、そして捨てた。
ジェームズは悲しい雰囲気をまとってキョウの足元に体育座りでうずくまり、めそめそと今度は乙女泣きを始める。
その鮮やかな手腕にリーマスが再び拍手を送った。
さめざめと泣き続ける自分の親友の姿をシリウスは見ないフリをしていた。
しばらくその状態が続き、最後の穴を繕い終えたキョウが糸切りバサミで糸を切り、綺麗に繕われた靴下を持ち主に返す時にようやく彼は足元のジェームズに「で?」と声をかけた。
「ジェームズはなんでリリーに怒られるようなことしたんや?」
「僕が悪いことは決定なんだ……」
ずばりと言われてしまい、ジェームズはますます暗く淀んだ空気を背負いはじめる。
「違うんか?シリウース、全部終わったで。これでもう大丈夫やろ」
「あぁサンキュ。悪かったな」
「別にええで。慣れとるしなー」
「キョウは家事全般得意だっけ?羨ましいなー僕なんか片づけすら満足に出来ないよ」
「まぁなー必要に迫られて上手になったというか……でもリーマスこれからの男は家事ぐらいできんとあかんで?そやないとお嫁にいかれへんよーになってしまうしな」
「リーマスのアレは規格外のレベルだ。コイツと結婚するんだったら質量保存の法則を完璧に理解できてねぇと無理だぜ」
「うるさいなーシリウスは。靴下に穴あけてた癖に」
「おまっ…!それは言うな!!」
「ちょっとみんな、僕の話聞いてくれるんじゃないの」
真っ赤になってリーマスに食ってかかるシリウスや、澄ました顔で紅茶をすするリーマスや、自前のソーイングセットを片付けるキョウに疎外感を感じたジェームズは彼らに向かって恨みがましい視線を送る。
しかし、「男の友情なんてこんなもんやろ」と、さらりとドライにスリザリン所属の留学生に言い返され、彼は世の中の冷たさを知った。
「そんで、本当のところはどないなんや?ジェームズはいっつもリリーを怒らしとるけど口もきいてもらえへんなんてよっぽどなんやろ」
気を取り直すようにキョウが自分の分のお茶を新しく淹れなおしながら聞く。
一重の少しつった切れ長の焦げ茶色の瞳が、今度は真っ直ぐにジェームズを見ている。
そのことに少し居心地の悪さを感じ、ぼさぼさの髪をさらにかき混ぜながらジェームズは躊躇いつつも口を開く。
「いやー……うん、やっぱり僕が悪いんだろうけどさ。興味本位っていうか、そんな感じのことなんだけどね」
歯切れの悪い話し方はいつも明瞭快活に喋る彼らしくなくて、シリウスとリーマスは思わず互いの顔を見合わせる。
無言で先を促すキョウの視線を気にして、ジェームズはずれてもいない眼鏡をかけなおしながらゆっくりと続ける。
「ちょっとに余計なことを言ったかなー……みたいな?」
言い終わった瞬間、焦げ茶色の視線が射すように鋭くなった。
しかしそれを気にとめる間もなく、シリウスが「はぁー!?」と声を大にして眉を吊り上げたし、リーマスが笑みを深くしながらジェームズの分の紅茶に黙って塩を入れはじめる。
「何してんだよ!?つうか何言ったんだよ!」
テーブルに両手を着いて立ち上がったシリウスが言い、
「それでここ最近リリーのガードが厳しくなってたんだ。ふーん、そう、ジェームズのせいだったんだ」
自分の髪をくるくると指に巻きつけながらリーマスが呟く。
ジェームズがリリーに口をきいてもらえなくなったという三日前から、に話しかけようとすると、あの赤毛の美少女は素早くそれを阻んできた。
少しばかり不審に思いつつも何か理由があるのだろうと我慢してきたのだが、まさか身近に原因となった人物がいるとは思わなかった。
「さっさと謝ってきなよ。どうせくだらない事聞いたんでしょ」
冷たく切り捨てるリーマスとは逆に、キョウは足の上に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる格好で真剣にジェームズを見やる。
「何を言ったんや」
普段のフランクな調子で話す彼とは思えないほど低い声で問われ、その信じられないほど強い抑圧にジェームズはごくりと生唾を飲み込む。
が見ている世界について気になったことを少々」
努めて平静に、普段どおりに聞こえるように努力した。
そうなるように念頭においておかないと、苛烈な視線に負けてしまいそうだった。
キョウは無言でジェームズを見ている。
ぴんと張り詰めた糸のような油断ならない空気がその場を支配する。
永遠に続くかとも思われた刹那の時は、焦げ茶色と榛色が視線をずらすことでようやく終わりを告げた。
その場をやり過ごしたジェームズはほっとして、知らず流れていた冷たい汗を拭う。
そんな彼の耳にとんでもない言葉が入ってきた。

「ジェームズ・ポッター、ブラックリストに追加」

一瞬身体の動きを全て止めたジェームズは「えぇー!?」と素っ頓狂な声をあげる。
「ちょっと、ねえどういうこと!?ブラックリスト??何のリストなのさ!?」
慌ててキョウに取り縋るが、彼は素知らぬ顔でお茶をすする。
「さぁなー?何やろうなー。ま、安心し。別に命までは取ったりせえへんと思うから」
「命って?命って何!?僕一体どうなるっていうの!?」
必死になっているジェームズの肩をリーマスが優しく叩いた。
「落ち着いてジェームズ。まずこれを飲んでからゆっくり考えてみなよ」
とすすめたのはほど良く冷めた紅茶で。
シリウスが気付いて何か言う前にジェームズは一気に飲み干し、そして盛大に吐いた。
「ぶーっ!?な、何これ……っ」
小半時ほど前と同様に再び涙目になったジェームズにリーマスはただにこにこと笑っているだけだった。
それ故に説明を求められたシリウスは明後日の方向を見ながら答える。
「さっきリーマスが作った塩入りの紅茶……多分スプーン五杯ぐらい入れてたと思う」
言われてジェームズがカップの底を見れば、溶け切ってない塩が残っていた。
思わず気が遠くなるジェームズを他所にキョウは教科書やノートを広げ始める。
「高血圧には気ぃつけやー」
赤いインクで重要な部分をチェックしながらさして興味もなさそうにそう言われ、ジェームズは本気で悲しくなった。
その場にがっくりと膝をついて、「男の友情なんて…」と世間の逆風に煽られている彼を放ってシリウスとリーマスはキョウの広げた勉強道具にすぐに夢中になっていく。
「やっべー試験近いんだよな。俺魔法薬学のノート全然とってねーよ」
「セブにでも借りたらええやん。アイツのノートは完璧やでーちょっと字が細かくて見にくいけどな」
「誰が借りるかよ!」
「あ、僕借りたいかも。キョウから頼んでみてよ」
一気に騒がしくなった室内だが、夕方に近い頃、丁度通りかかったピーターが隅っこに蹲るジェームズを見つけておろおろとしながら声をかけるまで彼は放っておかれたのだった。



目覚めはゆっくりと、漣のように些細な変化も共に運んでやってくる。
自室のベッドの上に起き上がってはぼんやりと辺りを見回す。
身体が重く、まだ脳は睡眠を欲している。
「行かなくちゃ」
たった一言呟いて、ふらつく足取りで寝巻きのまま外へ出て行く。

唇が無意識に誰かの名をなぞったような気がしたが、彼女はまだ其れを知らなかった。




  


完成日
2005/2/4