『ずっとずっと逢いたかった』



邂逅



リリーがの不在に気付いたのは夕方、そろそろ晩御飯が大広間に用意されるという頃だった。
ここ最近いつにもましてぼうっとしがちな彼女は授業中はおろか、教室を移動する合間にさえも眠ってしまいそうになっていた。
それはいつも通りといえばそうであって、けれど何処か違和感があるのもまた確かだった。
いつからそうなったのか、と考えを巡らし、思い当たる節を片っ端から検証してみた結果、ジェームズがに『何か』を言ったあの日から、そうなってしまったのだということに気付いたのだ。
彼が言った言葉の内容はあまり覚えていない。
それはリリーの与り知るところのの事ではなかったのだから当然である。
彼女にとってのとは、守ってあげなくてはならない大切な存在という事項がまず一番にくる。
勿論、親友ということもある。
マグル生まれの彼女がホグワーツに来て以来、一番多くの時間を共に過ごしたのだから自然と親密な関係になる。
元来世話好きなリリーにとって、は妹のようでもあった。
自身の実妹が最近自分と距離を置きたがっていることに気付いてからは益々その色が濃くなってきている。
最も、リリー自身は妹とを重ねていることに気付いてはいないし、またの方もその扱いに不満はないのだからこの関係が成り立つのだ。
そのはここ二、三日いつにも増して眠りが深い。
風邪をひいたのかと熱を測ってみても異常はなく、マダム・ポンフリーに診てもらっても原因が分からない。
仕方が無いので授業が終わるとすぐに彼女を自室へ連れてきて夕食までの数時間を眠らせている。
ベッドに潜るとすぐに寝入ってしまうは寝返り一つうたずに只、眠るだけだ。
眠っていると妙に大人びた印象を受けるその寝顔を見ながらリリーは溜息をつく。
「言ってくれないと分からないじゃない」
が自分のことを中々話そうとしないことは数少ない彼女への不満でもあった。
この年代の少女達は時に親友と呼べる同性の友人とまるで恋人のように付き合う傾向がある。
好きな人にはなんでも話して欲しい、全てを共有したい、秘密など言語道断。
多くの少女達がそうであるように、リリーもそうであった。
しかし彼女は聡明であったので、話さないに文句を言ったことは一度も無い。
言いたくない事情があるのかもしれないし、話さないところで自分達の関係が変わるわけでもない。
だが知らないという事実にもどかしさを感じるのも本当のことで、年に数回の割合でこうして眠り続けてしまうを見るのは辛かった。
何か力になれるのならなってあげたい。
一人で苦しまないで欲しい。
を知る者ならみんなそう思うはずだ。
そのことに早く、気付いて欲しかった。

裸足で歩いてきてしまったことに気付いたのは足先が随分と冷たくなってからだった。
そもそもどうやってここまで歩いてきたのかすら自分のことなのに思い出せないでいる。
普段からぼんやりしていると周囲の人間に苦笑されながらも言われているのだから、きっと今度もぼんやりしている内に歩いてきてしまったのだろう。
自室のドアを開けたり、談話室を横切った記憶がないのもその所為だ。
はふらり、ふらりと覚束ない足取りで進みながら考える。
「呼んでる人、誰?」
細い喉から出る少女の声は耳に甘い。
恐らく今誰かが彼女を見かけたら、夢遊病ではないかと疑うのだろうが、周囲には人一人、ゴーストさえも姿を見せないでいる。
「行かなくちゃ。でも逢いたくない、な……」
黒曜の瞳が瞬くと、不安げな色を覗かせる。
逢いたい、でも逢ってはいけない。
自己の中に湧き上がる二つの相反する感情が何処から来るのかさえ今のには分からなかった。
とても逢いたいと願っていたはずなのに、酷く拒んでしまいたくなる気持ちがぎりぎりで勝っている。
しかも逢いたいと思う人物すら誰なのかが分からない。
長い廊下に蝋燭の灯りで出来た影が頼りなく揺れる。
「………」
ふと、立ち止まったは緩慢な動作でゆっくりと視線を上に向けた。
廊下の奥に黒髪のすらりとした少年が立っていた。
彼はの姿を見て酷く驚いている。
蝋燭の灯りに照らされたその白い頬が誰かの名前を呟いたような気がして、は首をかしげて問いかける。
「あなたが、呼んでたヒト?」
「……そうだよ」
しばらくして彼はやっと答えた。
「ずっとずっと、君に逢いたかったんだ」
泣きそうに微笑む彼の瞳は、深い紅で。
どうしてだかも涙が溢れてきそうになる。
知らない人のはずなのにずっと昔から知っていたような気がして、懐かしさと愛しさと、そして寂しさが胸の奥深くから熱い塊となってこみ上げてくる。
こらえ切れずにそれは涙となって頬を滑り落ち、それを見て少年は安堵したように小さく息をついた。
「良かった。忘れられていたらどうしようかと思っていたんだ」
「わたし知らないよ。あなたのこと、名前も何処で会ったのかも。何にも分からないよ」
「いいんだよ。君はそれで。それでも君は僕を見て泣いてくれたんだから」
の言葉に傷ついたように一度目を伏せ、彼女に歩み寄りながら少年は言う。
二人の距離がの歩幅で一歩半で彼は立ち止まり、ゆっくりと手を伸ばして彼女が流す涙に触れる。
「これが僕を覚えててくれた証拠」
儚げに微笑む少年には出会った記憶が無い。
けれど確かに知っている、の中の決して特定できない何処かが彼を覚えているような、そんな酷く曖昧な過去と現在を結ぶ糸の上に二人は今立っていた。

が何処に行ったのか知らない!?」
女子寮へ続く階段から血相を変えて飛び出してきたリリーを見て、談話室で試験勉強まがいのことをやっていた悪戯仕掛人の面々とキョウは驚いて彼女を振り返った。
普段取り乱すことの少ない彼女が明らかに平静を失っている。
そのことに気付いたリーマスが宥めるように穏やかに話しかける。
「どうしたの。は部屋にいるんじゃないの?」
「いないのよ、何処にもいないの!最近調子が悪そうだったから部屋から出ないようにしていたのに……」
蒼白になって自身を抱きしめることしか出来ないでいる彼女の様子に気付いたリーマスがジェームズに向けて視線を送る。
ジェームズはそれに頷いてリリーの隣に歩み寄り、そっと肩を抱いて優しく幼子に言い聞かせるようにゆっくりと深い赤毛を撫でてやる。
「落ち着いてリリー、ゆっくり話して。ね、みんなで探せばすぐに見つかるから」
涙さえこぼしそうだった緑玉の大きな瞳がジェームズを捉えると、彼女はその胸に縋り付くように抱きついた。
ジェームズは何も聞かずにただリリーの髪を撫でてやる。
そのまましばらく彼女が普段通りの調子を取り戻すまで彼らは辛抱強く待った。
感情的になりやすいシリウスは苛々を隠せない様子で足を何度も組みかえる。
リーマスは取りあえず落ち着こうとソファに座りなおして大きく息をつく。
ピーターはおろおろしながらも自分一人ではどうしたらいいのか分からないのでその場に立っている。
そして焦げ茶色の瞳をゆっくりと瞬かせたキョウが立ち上がり、ジェームズの腕の中にいるリリーに優しく微笑みかける。
やったら大丈夫や。あいつは見た目ほどうっかりしとらへん。きっと寝るのに飽きて散歩にでも行っとるんやろ。俺も心当たり探してくるし、リリーは落ち着いたらジェームズ達と来たらええ」
言い終えて鞄を肩にかけ彼は談話室を出ようとする。
が何処に行ったのか分かるのか?」
途中呼び止めたシリウスの灰色の瞳に幾分か緊張した面持ちで答える。
「多分……な。来るんやったら三十分後に西側の塔、それ以上早く来たらあかん」
「何でだよ。さっさと探して連れ戻さねえとリリーが」
「何でもええ!言うとおりにせぇへんかったら俺の師匠直伝の呪いの実験台にするで」
ドスのきいた声で詰め寄られてしまえば変に押しの弱い部分のあるシリウスは頷くしかなかった。
後でリーマスにちくちくと嫌味を言われたりするのだろうが、このときの彼はそんなこと考えもしない。
今度こそ早足で談話室を飛び出していったキョウを見送りながらジェームズは「やっぱり僕のせいかなぁ?」とバツが悪そうに呟いた。

目の前の綺麗な造りをした少年をは黙って見上げる。
その黒曜石のような闇夜の瞳に映る彼は懐かしそうに目を細めた。
「久しぶりだなその瞳……名前を教えてくれないか。君の名前を」
涙をぬぐっていた指がそのまま頬を滑り、の髪を耳にかける。
されるがままになっているは少年の紅い瞳をじっとみつめ、ふいにその口を開いた。
「だめ」
「……どうして」
優しげに自分の頬に触れていた指先が強張るのを感じてもは動じず、常のように眠たげに半分伏せられた両の瞳で少年の襟元、 スリザリンカラーの銀と緑のネクタイに焦点を合わせながら独り言のように呟く。
「だってあなたはここに在ってないものだもの。お師様に怒られちゃう」
最後の一言を言い終えると、目の前の少年は忌々しげに唇を噛む。
綺麗な造作が崩れて一転し、昏い情念を宿したものになる。
けれどそれを何とか押し込めると、少年は再びを覗き込むように顔を近づけ、その黒い目に己の姿を大きく映し出した。
「でもね、君はまた僕に逢いにくるよ。だってそれが君の運命なんだもの。きっと、君は僕の元へくるよ」
髪を一房掬い上げて、慈しむように唇を落としながら少年は言う。
美しく、けれど冷たく微笑みながら彼は呪文のように唱える。
「還ってくるよ僕の傍に……だってそれが正しいんだから」
全てを無感情にやり過ごすの額に最後に軽く口づけて、少年は一歩後ろに下がった。
「またね」
薄く笑ったまま彼は廊下の奥、その闇の中へ溶けていった。
後に残されたはたった今、触れられた額を指でゆっくりなぞる。
不思議そうに首をかしげながらようやく今更ながらに今の少年が誰であったのか、名前も聞かないままだということに気付いた。
「でも、多分……ずっと昔かもっと未来に」
呟く声は酷く幼い。
そして大人びた色をも含む。
どちらも彼女であって彼女ではないモノだった。
ゆっくりとその場にしゃがみ込みながらは紅い双眸を思い返していた。
血のように美しく、夕日のように哀しい色の其れはまるで、散る瞬間の花のように鮮やかで。


眠りに誘われる意識の深くで、誰かが泣いているような気がした。
とても大切な人が。
泣いてなんか欲しくないのに、声も腕も『彼』には届かなかった。




  


完成日
2005/02/10