運命の輪は廻る。
それは人の感知しない領域で静かに、静かに廻り続ける。
ヒトが其れに気付くのはいつも巻き込まれ、翻弄された後だ。
そう、いつだって。
月の無い晩に星空を見上げる菫色の持ち主はゆるく微笑う。
「いつだって後悔するのはヒトの性なのよ」
星明かりだけで照らされた室内に浮かぶ仄かな淡い黄色の灯り。
彼女は見ていた。
遠い昔に交わされた約束のゆく先を。
只、黙ってみているだけだった。
回転木馬
汗だくになりながら走って辿り着いた先に少女は倒れていた。
慌てて傍へ寄って抱き起こすと安らかな寝息が聞こえた。
その事に心底安堵して、しかし彼は険しい視線を少女が倒れていた廊下の先へと向ける。
「ルール違反と違うか。蓮さんに近付くなって言われてたはずや」
怒りが込められた声を受けて、黒髪の少年が暗い影の奥から現れる。
彼は少女と居た時とは違い、冷たく凍えるような視線をキョウに向ける。
「それは“今の僕”が逢ってはいけないというだけのことだろう。僕には当てはまらないから関係ないね」
ほとんど面倒くさそうに返された返事にキョウは奥歯を噛み締める。
少年の言った言葉は間違ってはいない。
だからこそ込み上げる憤りの行き先が見つからずに、眉間の皺をますます深くして紅い瞳を睨みつけることしか出来なかった。
「それよりも、オマエまだあの女の所にいるんだって?呆れた。何の力も無いくせに長生きだけしてたって意味がないじゃないか」
嘲笑う彼の表情は酷く美しい。
「本当にしつこいね。キョウ、だっけ?覚えてもらってもいない癖に何でそんなに頑張るんだか」
理解できない、といった風体で肩を大袈裟に竦めてみせる少年にキョウが焦げ茶色の瞳に嫌悪を宿すと、彼は更に嬉しそうに嗤う。
「馬鹿じゃないのか?さっさと諦めればいいのに。むなしいだけだろう?ねえ、キョウ」
「呼……な……」
俯いて、喉の奥から絞り出した声は掠れていて聞き取れない。
いや、本当は聞こえていたのかもしれないが、スリザリンカラーのネクタイを締めた少年は、同じ色のタイを無表情に見下ろしながら近くまで寄る。
「別にどうってこともないけどオマエ、少しだけ邪魔なんだよね。ねぇキョウ、僕の元においでよ。そうしたら君の大好きな『ご主人様』の傍にずっといられるよ?」
それは甘美な誘惑だった。
傍に居たい。
ずっと、ずっと傍に。
願うことはそれだけなのに、ささやかな望みであるはずなのに。
だがキョウにとってそれよりも大切な人に貰った大切なモノを汚されていることの方が許しがたいことだった。
「呼ぶな言うてるやろ……その名前で俺を呼ぶな」
遠い昔に貰った其れは、今の自分を形作る一番大きな欠片で。
それを簡単に他人によって踏み荒らされる謂れなど何処にもない。
「あ、そう」
亜麻色の髪の下から激しい感情をぶつけられて、少年は興醒めしたように一歩引いてそのまま元来た方向へゆっくりと歩いていく。
「待てやっリドル!」
思わず呼んだ名前に今度は黒髪に紅い双眸の少年――リドルが不愉快そうに眉を吊り上げて顔だけで振り返る。
視線だけで何事かと問うてくるリドル。
その苛烈な昏い瞳の光に引きずり込まれそうになるのを必死に堪えながらキョウは真っ直ぐに紅を見返す。
窓の無い廊下では頼りなく蝋燭の灯りが揺れるだけである。
「まだ諦めてないんか、おまえはまだ……の」
言いよどむキョウを心の底から哀れむようにリドルは微笑む。
それは至上の笑み。
力ある者だけが知る、優越という名の豪奢な微笑。
「当然じゃないか。彼女との約束は僕の中にある。君は黙って横で見ていればいいよ。そろそろ……そう、もうすぐ僕はの力を手に入れるよ」
さっきまで浮かべていた冷酷な表情とは打って変わって、どこか恍惚とした顔でリドルはそう言って、今度こそ去った。
キョウは無意識に止めていた息を大きく吐き出すと、腕に抱えた少女を泣きそうに顔を歪めながら見つめる。
固く閉じられた瞳の漆黒、細い肢体、なめらかな肌、緑なす黒髪。
そのどれもが遠い記憶の中の彼の大事な人と同じで。
思い出すたびに傷つきながらもそれでも捨て切れなかった大切な少女の面影。
「あかんなー……分かってたはずやのに」
一人でカッコ悪く笑って、の額にかかった髪をそっと払う。
守りたかったのに、守りきれなかった。
苦しくて痛くて叫び出してしまいそうになるのに今でも鮮明に覚えている。
「忘れてる方がの為なんや。そうやって今までずっとやってきたんやから」
けれど、やはり。
できることならば。
「思い出して欲しいと思うんは、わがままやって分かってたはずやのになぁ」
廊下の端から西日が差し込む。
日没の一瞬を彩る最後の光は信じられないほど鮮やかに濃い影を落とし、そして深い郷愁を誘う。
脳裏を過ぎる散華の瞬間。
あの日も夕日が赤くて、周りに咲く花も紅くて、そして散る緋は信じられないほどに鮮やかだった。
忘れないで下さい。
覚えていてください。
俺を、思い出してください。
言いたくても決して言えない言葉達が強く胸を締め付ける。
自由な方の腕で白くなるほど固く握った拳を衝動のままに床に叩きつけた。
鈍い音がして、同時に感じる痛み。
「ん……」
ふいに腕の中の少女が身じろぐ。
はっとして見下ろせば、はとろとろと重たげに瞼を開いたところだった。
ぼんやりとした焦点の合わない目でそれでもキョウを見てへにゃりと微笑う。
「変な顔ー」
そして開口一番にそう言った。
一瞬言葉に詰まったが、キョウは脱力して肩をがっくりと落とす。
「あんなー心配して探しに来てやったのにそれはないやろ」
呆れたように苦笑して、常のように彼女の『家族』である己を取り戻す。
だがネクタイを軽く引っ張りながら漆黒の瞳が見上げて放った一言でそれは危うく崩れ去るところだった。
「何かあった?」
不思議そうにそう言うに又もや咄嗟に返事が出てこない。
「泣いてた?」
キョウの頬を指でゆっくりとなぞりながら彼女は更に問う。
そんなに過去を重ねてしまいそうになる自分を叱咤してキョウは「何で?」とやわらかく訊き返す。
「んー……誰かね、泣いてる気がしたから」
少し考え込むとはそう言った。
見透かされているのはどうしてだろう、と彼は考えた。
「俺やない」
それでも短く震える声で答えてキョウはそのままをぎゅっと抱きしめる。
はされるがままになっていたが、やがて小さく聞こえた嗚咽に自身の腕を幼馴染の少年の広い背に伸ばしてぽんぽんとゆっくり叩くように撫ぜる。
「一人で勝手に出歩いたらあかんよ。リリーが心配しとった。俺も心配するし、に何かあったら蓮さんも心配する」
声に震えがなくなるまで落ち着いてからキョウは小さくそう言った。
「うん。ごめんなさい」
声が返ってきてほっとして、キョウはから離れる。
「ほな帰ろうか」
「うん」
「っておまえ何で裸足やねん」
立ち上がって気付いたキョウがの足元に視線をやって、言われてようやく思い出したように彼女も「あー」とやる気の無い声を口から発する。
そんな様子にキョウは片手で顔を覆って嘆く素振りをみせながら、しかしあまりにも彼女らしい行動にほっと息をついた。
「しゃあないなぁ」
わざとらしく大きく嘆息して彼はに背を向けてその場にしゃがむ。
特に言葉を継ぎ足さなくても意味を解した彼女が確かに背におぶさるのを確かめてからゆっくりと立ち上がり、歩き出す。
「えへへ」
ふいに耳の後ろから聞こえた笑い声にキョウは歩きながら「何や?」と訊く。
すると彼の首に両腕をまわした状態で少しだけ後ろに背を反らせては嬉しそうに笑う。
「なんかね、久しぶり〜って思ったから。昔もこういう風にお師様の家に帰ってたなって」
「あぁそやなぁ、が遊び疲れて寝てしもた時とかようこんな風に運んだわ」
キョウも少しだけ昔を思い出して懐かしさに目を細める。
夕暮れ時に長くなった影法師を追いかけながら、帰りを待つ人がいる家へ共に向かう。
ドアを叩けばあたたかく迎えてくれて、たった一言「おかえり」と優しく頭を撫でてくれる。
「わたしお師様に頭撫でてもらうのすごく好き」
「俺は蓮さんにはよ飯作れて言われるのがすごく嫌や」
共有した幼い頃の記憶を思い返す二人は同じように微笑い合いながら当時を懐かしむ。
彼の方が些かくたびれた哀愁を含んだ笑いであるのはこの際瑣末な問題であるので放っておく。
「早くお師様に会いたいな……」
キョウの後頭部に自身の額をこつんと小さくぶつけてぽつり、ともらした言葉にキョウはを背負いなおすと明るく答える。
「もうすぐ夏休みや。そしたらすぐに会える」
そして俺はまた埃まみれの店の掃除から始めるんやな……と視線を横にずらしてどんよりとした空気を背負いキョウは呟く。
そんな彼の様子にはまた笑った。
「どないしたんやコレ……」
グリフィンドール寮に戻ったキョウは呆然と立ち尽くす。
ソファはひっくり返り、観葉植物は倒れている。
誰のものか知れぬレポートの残骸が床に散らばり、数十分前にこの部屋にいたときは確かに茶器であった白い陶磁器は砂に還っているし、壁には惨状の極めつけと言わんばかりに血痕がついていた。
「おおー」
が背中で割と感嘆したような声を上げている。
「あ、お帰り」
横倒しになったままのテーブルの後ろからひょっこりと顔を出したリーマスが二人を見つけてひらひらと手を振った。
「な、何があったんや!?」
驚愕に堪えないといった感で人の気配が全くしない談話室を眺める。
「何でもないよ」
そのままテーブルを軽く乗り越えてこちらにやって来たリーマスを見下ろしながら問うキョウに彼は穏やかに笑って答えた。
キョウの背におぶさるの髪をちょっとだけ撫でてにっこりと続ける。
「ただリリーがのことで少しだけ羽目を外してジェームズと喧嘩しただけだから」
見れば部屋の隅に最早板切れとなってしまったテーブルの残骸が折り重なり、その向こう側に見知った癖のある黒髪がほんの少し覗いているし、
その反対側では恐らく親友を助けようとでもしたのだろう、シリウスが全身擦り傷だらけで気絶している。
ピーターはというと、先ほどまでリーマスが隠れていたテーブルの影に小さくなってがたがた震えながら「僕の変身術のレポートが……」と涙を零していた。
当のリリーは大暴れした後に自室に引きこもってしまっているらしい。
その様子を一通り眺めたが「地獄絵図?」と可愛らしく小首をかしげた。
「そうやな……」
横で恐らくたった一人難を逃れていたリーマスが「ジゴクエズって?」と聞き返すが今のキョウに説明してやる気力はない。
「蓮さんの店の前にここの片付けからせないかんなー……」
ぼんやりと呟いたキョウの頭をがぽんっとたたいた。
首だけで振り返れば、目が合った彼女はにこーっと笑う。
「頑張れ家政夫さん〜」
「僕も手伝おうか?」
リーマスが言うが、キョウはその申し出を丁寧に断った。
掃除に関して全く役に立たない人間ばかりが無事に残っているとは運命は中々皮肉である。
自身の運の悪さを今更ながらに嘆きつつ、結局こういった星の元に生まれた自分をほんの少しだけ慰めてみたりしながら、キョウはとりあえず壊れた家具の修繕をするために杖を振ったのだった。
刻限は真夜中。
丑三つ時とも呼ばれるその時間、かすかな星の光のみで酒を呑む。
僅かに朱がさした頬でふと薄暗い店内を見回す。
うっすらと埃のつもった部屋を見て、あの亜麻色の髪の少年は怒りながらがっくりと肩を落としつつ掃除を始めるのだろう。
その様子が手に取るように分かってしまい、彼女は微笑む。
「もうちょっとで帰ってくるわねぇ」
うふふ、と嬉しそうに笑って手元の砂時計をいじりながら彼女は再び空を見上げる。
その菫色の瞳が優しく哀しげに細められる。
「みているだけ、というのも中々に辛いものね」
ほぅ、と溜息を漏らして又酒をつぐ。
杯に星を映し出して、数奇なさだめに巻き込まれようとしているたくさんの者達を憂えた。
みていることしかできないのなら、それは全てを知っていても何も知らないのと同じであるのだから。
「辛いわね」
そっと両の瞳を閉じてもう一度、呟く。
ゆっくりと廻り続ける輪に思いを馳せても、約束は成就するかどうかなど判るはずもない。
ことり、と静かに砂時計を卓の上に載せる。
さらさらと零れ落ちる砂を見もしないで、彼女は杯の中身を飲み干した。
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完成日
2005/02/18