太陽が南に高く昇りきった頃にようやく目覚めた彼女は、そこら中に転がっている色とりどりで様々な形の瓶を見てしばし考え込む。
遮光カーテンによって直接の光を遮られた室内で鈍く表面を光らせるそれらを足元から順に指折り数えていく。
だがその数が両手の指よりはるかに多いことを寝ぼけた頭でようやく悟り、そして彼女は考えることを放棄した。
「ま、人手はこれから十分に来るから大丈夫でしょ」
だるそうに呟いて、大きな欠伸を噛み殺す。
そう時間が経たないうちにやってくるであろう人物の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと立ち上がり、遅すぎる『朝』を彼女は迎えたのだった。
帰省は徒歩で?
駅でリリーやリーマスやピーターに別れを(強制的に)告げ(させられ)、セブルスに手を振るを無理矢理引っ張ってきたシリウスは、大勢の人々でごった返す街に出て肝心なことに気付いた。
「ってかどうやって日本に行くんだよ」
そう、とキョウは日本出身である。
当然ながら住んでいる場所も日本である。
そうでなければ“日本出身”などと言えない。
シリウスにだって一応はマグル世界の常識なんかはある。
ここイギリスから遥か彼方の日本にまで行くのに箒なんかで行けるわけがない。
だから『ヒコウキ』とかいう鉄の塊で大空を飛ぶようなのだが、国境というものがそれを簡単に許してくれないらしい。
いったい何処にそんな線引きが為されているのかつくづくマグルというものは理解しがたいと思うのだが、人間は他所の国にほいほいと身ひとつで出向くことは出来ないのだそうだ。
「身分証明書なんてマグルのものなんか持ってないぜ?」
左腕にを抱えたままシリウスはそう言って自分の前の亜麻色の頭を見つめた。
の分の荷物も軽々と持ちながらその亜麻色の持ち主はさっさと歩き、顔だけ振り返ってシリウスに返事を返す。
「心配あらへん。飛行機なんて乗らへんから。大体おまえらあーいうのに慣れてへんから下手に乗せたら大騒ぎになるやろ」
そんな目立つようなことはしたないしなぁ、と軽快に笑いながらも彼は歩みを止めない。
人波をさほど苦労している様もなくすり抜けていく。
対してシリウスとジェームズは自分の大きなトランクを足にぶつけたり、あるいはすれ違う見ず知らずの人に当ててしまったりで、その度に悲鳴を噛み殺したり大慌てで謝ったりするものだから中々前に進めない。
知らない人の頭の向こうにその亜麻色が消えてしまいそうになってからようやくジェームズが「ちょ、ちょっと待ってよ」とキョウを呼び止めた。
「一体何処に向かってるの?こんな大荷物抱えたままじゃ目立ってしょうがないよ」
大通りから一本脇道に入って、人通りのない場所でトランクに身体を預けながらジェームズが言う。
「何処って、師匠の家やけど」
野良猫を見つけて走っていってしまいそうなの首根っこをしっかりつかまえながらけろりとキョウが答える。
「だーからっどうやって日本に行くってんだよ。まさかこのまま歩いて行くっていうんじゃないだろうな」
自分で言った発言にげぇと顔をしかめてシリウスが口を挟んだ。
いくら自分達が健康でそこそこに体力のある男だといっても、それぞれ学校用の大きなトランクを引きずっているし、キョウは自分の分との分まで持たなければならない。
「砂漠越えたりとかするかな?」
妙にわくわくした瞳でジェームズがシリウスを見上げるが、ブラック家の長男は「できるわけないだろ!」と常識的に一発軽く殴った。
「行き先はとりあえず漏れ鍋や」
「漏れ鍋?煙突飛行で行くのか?」
行き慣れた店にある古めかしい大きな暖炉を思い浮かべながらシリウスが首をかしげる。
だがキョウは首を振って「違う違う」と否定した。
「用があるんはダイアゴン横丁の方や」
「何で?」
先程シリウスに一発くらった際にずれた眼鏡を直しながらジェームズが問うが、キョウは今度は答えず「さー出発やーあんまり遅うなったら蓮さんに怒られるからなー」と言ってを伴いさっさと歩き出していた。
一瞬訳が分からずに顔を見合わせるジェームズとシリウスだったが、人込みに亜麻色と黒が紛れてしまいそうになってからようやく我に返り、慌ててトランクを持ち上げて後を追ったのだった。
何だかんだ言って漏れ鍋に到着し、一息入れる間もなくダイアゴン横丁に入る。
一歩踏み出せばそこは魔法使いだけの世界だ。
色とりどりのローブをひるがえし、とんがった帽子をひょこひょこさせながら大勢の魔法使いが忙しなく通りを行き交っている。
「ねーちょっと休憩しようよー暑くって僕もう本当に駄目」
へろへろとその場に崩れ落ちるジェームズの後頭部をがぺしぺしと叩く。
シリウスは辛うじてへたり込むのを我慢しているようだったが、彼も辛そうだ。
立ち止まって振り返ったキョウが苦笑いをする。
「なんや坊っちゃん達は体力あらへんなー。別に休みたいんやったら休んでもええけどな」
「ほんと!?じゃあフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラーで一休みしよう!」
疲れている割には長ったらしい店の名前を一度も噛まずに言い切った輝かんばかりの笑みのジェームズに、なおも苦笑しながらキョウが声をかける。
「今晩ご飯抜きで蚊に刺され放題の藪の中で素敵に夜を過ごしたいんやったら俺は止めへんで」
星は見放題やから天文学の宿題はできるなーと暢気に笑いながら、道行く怪しい魔女に得体の知れない臓物を薦められてうっかり買わされそうになっているをしっかり引き寄せる。
「冗談……」
呻くように言ったシリウスにが無邪気に笑いかける。
「ううん。お師様本気だよー」
「やぶ蚊に刺されると痛いし痒いし何より痕が残るしなー。治りにくいのが難点やな。今度特効薬作ってもらうか、セブにでも」
夏の日差しの下、朗らかに笑う二人を見て、シリウスは疲れた顔を親友に向ける。
「観念しろ……」
彼の言葉にジェームズはがっくりと項垂れた。
「よーし仕切りなおしやーほな行くでー」
明らかに夏休みに似つかわしくない空気を背負う二人を従えてキョウは意気揚々と再び歩き出す。
「心配せんでももうちょっとで着くから安心し」
長い石畳が続くダイアゴン横丁をひたすら歩き続けることを想像していたシリウスはほっと息を吐き出す。
キョウが「こっちやで」と大通りを曲がると人の数は一気に少なくなった。
様々な店が軒を連ねるメインストリートと違って、ここにあるのはどこか生活感漂う空気だった。
窓から渡されたロープに洗濯物が下げられて、壁の向こうから食器を洗う硬質な音がかすかに耳に届く。
「キョウ、ここは?」
「あー住宅街やな。ここらへんに住んでる人はみんな店持ってるか、その店員もしくは家族」
ふーんと呟きながら上を見上げるジェームズ。
「で、いつになったら着くんだよ」
いいかげん振り回されて機嫌の悪いシリウスが灰色の瞳を少しばかり鋭くしながらキョウを睨む。
「ああ、もう着いとるで?」
軽く答えたキョウがほれ、と指差す方向を見ると、一本細い道が家と家の隙間に存在していた。
注意していないと見落としてしまいそうなほど細いその道は、丸く削りだされた飛び石と白い砂利が敷き詰められており、数メートル毎に石で出来た灯篭が置かれていた。
灯篭なんか恐らく初めて見るのだろう、シリウスとジェームズは疲れも忘れてトランクをその場に置いて一歩、二歩その細道に足を踏み入れる。
「わー何だかここだけイギリスじゃないみたい。ジャパンって感じがするね」
素直に感動を表すジェームズにシリウスは灯篭をしゃがみ込んでしげしげと観察する。
そんな二人を笑って眺めながらキョウは自分の分とのトランクを持って進む。
「まー店の方はチャイナ風やったりするけどな」
「ジェームズもシリウスも置いてっちゃうよー」
「うわ、待てよ。ここまで来て置いていくことないだろう」
シリウスが自分の分とジェームズの分のトランクを引きずって二人の後に続いた。
白い小石が敷き詰められた小道をしばらく進むと、檜造りの格子門が現れた。
側にはシリウスより頭一つ半ほど高い背丈の先の尖った緑色の葉の木が植えられている。
「南天っていうんだよ」
視線に気付いたがにこーっと笑って教えてくれた。
からり、と軽い引き扉を開けてキョウがその奥にある玄関へさらに歩みを進める。
しっかりした太い柱の軒下にある玄関は古く、だがそれ故に重々しくあたたかかった。
脇に置かれた大きな鉢には睡蓮の白い花が上品に浮かんでいる。
物珍しそうにきょろきょろと見回すジェームズとシリウスをよそに、キョウは玄関の引き戸をがらり、と先程よりかは重たい音を立てて開け、中に居るであろう人物を大声で呼ぶ。
「蓮さーん、遅うなりましたーただいま帰りましたー」
薄暗い廊下の向こうから何かを落としたような物音が響いた後、しばらくして足音が近付いてきた。
「遅かったわねーもう待ちくたびれちゃったわよ」
耳に届いたのは甘やかな艶のある声だった。
光の下に現れた人影を見てジェームズとシリウスは息を呑む。
薄い水色にくすんだ朱色で流水とトンボの柄が染め抜かれた着物を纏い、濃い青の帯を締めたすらりとした女性が口許にゆるく笑みを浮かべてこちらを見ている。
襟元や裾は少し着崩されており、それぞれ信じられないぐらい白い肌の鎖骨や首筋、ほっそりとしたふくらはぎが見え隠れしている。
向けられる瞳の色は菫色で、左目の下に蠱惑的な魅力を添える泣きボクロ。
結わずに流されるままの髪は見事なまでの白銀で、足元に届きそうなほど長い。
間違いなく美人の部類に入る。
「お師様ただいま〜」
が満面に笑顔を浮かべてその美女に抱きつく。
「あーん久しぶりねー元気だった?いい子にしてたかしら?」
ぎゅーっと音がしそうなほど抱きしめ返しながら彼女も笑みを深くしての頭をぐりぐりと撫で回す。
「お師様?ということは貴女がとキョウの師匠?」
てっきり相当なお年を召した老齢の凄腕魔女を頭に思い描いていたジェームズは口をあんぐりさせながら目の前の師弟の感動の再会を目にしている。
横ではシリウスもぽかんとした表情で突っ立ている。
「そうよー?あたし以外に誰が“時守の魔女”を名乗るっていうの。ジェームズ・ポッター君?シリウス・ブラック君?」
急に名前を呼ばれた二人は電流が走ったような衝撃を受けて、反射的に背筋をぴんと伸ばした。
「ま、色々言いたいことは山積みなんだけどとりあえず歓迎するわ。ようこそジェームズ、シリウス。万屋懐古堂の主人の蓮よ、よろしくね」
そう言って紅をはいた様子の見当たらない赤い花のような唇でにっこりと微笑まれてしまい、年頃の少年である二人はぼーっとしながらも「はい」と間の抜けた返事をしたのだった。
そしてその笑顔のまま蓮は家の奥を指差した。
「じゃー早速で悪いんだけどジェームズは店の片付け、シリウスは家の中の掃除してくれる?
あ、キョウはあたしにご飯作ってね。もうお腹ぺこぺこなのよ、あんた達がさっさと帰ってこなかったから。この分はちゃんと上乗せしておくからね」
恐ろしく美人なキョウとの師匠である蓮は、その形のいい唇で少年達をこき使うべく命令を下した。
「え、今すぐ、ですか?」
「ええそうよ?あ、荷物は奥の部屋に入れてちょうだい」
「つうか俺ら目茶苦茶疲れてんだけど……」
「そんなの知ったことじゃないわ。大体貴方達あたしに奉仕する為にここに来たんでしょ」
「諦め。何言ったって蓮さんに勝てるわけないんやから」
どっと疲れが出て立ち尽くす二人の肩をそれぞれ二回ずつ叩いてキョウは優しく労わるような目を向ける。
を伴って奥に引っ込む蓮はキョウに向かって「お昼は素麺がいいわー」と注文をつけている。
それにはいはいと返事をしながらキョウもトランクを持って中に入り、後には黒髪の二人だけが残された。
「なージェームズ、俺今年の夏生き残れる自信が全く湧いてこないんだけど」
壁と壁の隙間から覗く憎らしいほどに青い空を見上げながら哀愁たっぷりにシリウスが言うと、
「ホグワーツの主席ってこういうときには何の役にも立たない肩書きだよね」
少しばかり自虐的に微笑みながらジェームズはがっくり肩を落とした。
「とりあえず、今晩は屋根のあるところで寝られるように頑張ろう」
呟いた言葉はとてもむなしく、夏だというのに寒風が吹きすさぶような錯覚を覚えたのだった。
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完成日
2005/03/11