知らなくていいこと



「あーお腹いっぱーい。うふふ、しーあーわーせー」
夏の日差しが眩しくきらめく午後。
家中の窓という窓が全て開け放たれている為、意外なほど屋内は涼しい。
グラスには冷えた麦茶が表面に水滴をたくさんつけており、とけた氷がからん、と涼しげな音色を立てる。
「やーっぱキョウはお料理上手よね。このつゆの味は中々だせないわよ。夜は何を作ってもらおうかしら」
黒漆のずっしりとした重量感のある座卓の上にある昼食の後片付けを弟子に任せながら蓮は食後のお茶を優雅に啜る。
今食べたばっかりなのに、とジェームズは思ったが口には出さなかった。
同じくシリウスも必死に口を閉じている。
昼食が出来るまでのほんのわずかな時間にこの家の主である蓮がいかに強大な権力を握っているのかを悟ったからだ。
慣れない正座という姿勢で小さくなっているジェームズやシリウスをは不思議そうに向かい側から見つめる。
「さて、じゃあキョウには台所に行ってもらうとして。二人には本格的に掃除に取り掛かってもらいましょうかね」
にっこり、と大層美しく微笑んで蓮は髪をかきあげる。
銀糸のような細い髪に光が反射して蒼にも紫にも見える。
「雑巾やバケツは階段下の物置にあるし。必要なものがあればそこの馬鹿弟子に言ってくれればいいわ」
じゃ、頑張ってね、と自分はくつろぎながら男三人を見送る蓮におずおずとジェームズが挙手する。
「あのー僕店の掃除任されてるんですけど何をどうしたらいいのかさっぱり分からなくって」
先ほど店の方へ案内してもらったのだが、そのいっそ惨状といっても差し支えないだろう有様にさすがのジェームズも絶句した。
どのくらい酷いのかというと、そこら中に転がる空き瓶や足の踏み場もないくらい散らかった大量の本。
棚からは物が溢れ出しているし、どこもかしこも埃まみれだ。
中にはジェームズには理解できない文字で書かれた書物や巻物もあり、うっかりと手を出せない状況なのだ。
こんなのを一人で片付けろなんて言われてもちょっと無理である。
というより何を何処に片付けたらいいのかが分からない。
そして片付けられなかったら間違いなく外に放り出されてしまうだろう。
それだけは嫌だ。
困りきった雰囲気のジェームズを見て蓮はその繊細な指先を顎にあててしばし考え込む。
「そうねぇ変に引っ掻き回されてぐちゃぐちゃにされても困るし」
「アレ以上散らかることなんてあらへんって」
「お黙り」
思わずつっこんだキョウに笑顔のままびしりと言い放って蓮は再び思考を続ける。
そうしてしばらく沈黙が続いた。
時折吹く風にどこからかガラスが何かにぶつかって奏でられる澄んだ音が聞こえる。
住宅街のど真ん中にあったというのにこの家はどうしてだかとても静かだ。
そのことを不思議に思い、シリウスが座卓を布巾で拭くキョウに聞こうと口を開きかけると、
「そうね、じゃあに手伝ってもらいなさい」
ぱちん、と両手を自分の前で合わせて蓮は楽しげにそう言った。
「え、に……?」
ジェームズは思わず指名された少女を見るが、彼女は座卓に頬をぺったりとくっつけて眠そうに目を細めている。
ジェームズが聞き返した理由は何も横で羨ましそうに恨めしそうに怒気のこもった視線をそそぐ親友を慮ってのことではない。
に物を片付けるという才能が全く存在していないことをよく知っているからだ。
今はこの場にいない鳶色の髪の親友と同じく、彼女には整理するという概念からおよそかけ離れた存在である。
がホグワーツで人並みの生活を送れているのは偏にリリーの並々ならぬ影の努力があってこそだ。
役に立つかも分からない人材に「手伝ってもらえ」とは、この目の前に悠然と微笑む美しい魔女は一体何を考えているのだろう。
ジェームズの考えていることを察したのか、横からキョウが穏やかに告げる。
「安心しぃ。は記憶力だけはいいんや。何を何処に片付けたらいいんか、その都度そいつに聞いてやったらええ」
「ああ、そういうことか」
ようやく合点がいったのか、ジェームズはほっと胸を撫で下ろす。
つまり散らかった物を全て元通りに片付ける指示を出すためにがいるということだ。
最初から彼女に片付けるという能力を期待していないことがはっきりと示唆された。
「ずるいぞジェームズ。俺は一人でこの広い家の中全部掃除すんのに」
シリウスが灰色の瞳を半眼にして睨んでいる。
彼にしてみれば、意中の相手を取られた上に馬鹿みたいに広い家中を全部一人でやれと言われてとても悔しいのだろう。
そんなシリウスにジェームズがかける言葉を選びあぐねていると、座卓の上で頬杖をついた蓮が横ですやすやと眠るを優しく揺り起こしながら菫色の瞳をそちらに向けた。
「安心しなさいシリウス。あんたはあたしがしっかり見張ってあげるから」
ちょっとでも手抜きしたら追い出すわよ、とにこやかに付け加える。
「え、それは……ちょっと遠慮したいっていうか」
瞬時に顔を引きつらせて強張った笑みを貼り付けるしか出来ないでいるシリウスを横目にジェームズは 「さー張り切って掃除しましょー」と自分は全くその気がないのに何故か元気な魔女を見て少しだけため息を吐いたのだった。

「えーっと、じゃあ始めようかな」
蓮に引きずられていくシリウスをキョウと共に見送り、その後昼食の後片付けと夕飯の準備のために台所へ入っていく亜麻色の少年を見送ってからを伴ってジェームズは店の方へやってきた。
この家の一番奥にその部分はあり、明り取りの窓だけがひんやりした廊下に光を落としている。
店舗内は土足でいいらしく、今立っている場所より一段低くなっている。
閉め切られたその中では埃とかすかな酒の香りが鼻をつく。
蝶と蓮の模様が透かし彫りにされた扉には、日の光を様々に変化させて跳ね返すガラスがはめられている。
観音開きになっているその扉の向こうには確かに人々のざわめきが聞こえる。
こちらの扉からはどうやらダイアゴン横丁のメインストリートに行けるらしい。
ガラスが厚い為に歪んで見える向こう側に時折人影が通るのが見える。
「あっちはね、あんまり行っちゃ駄目だよ」
扉を開けて空気の入れ換えでもしようかと思案していたジェームズに、住居と店舗の境目にちょこんと座ったがそう言った。
「え」
聞き返すジェームズにはすい、と右手を伸ばして指先で扉を指す。
「ジェームズは“ここにいる人”だからあっちには行っちゃ駄目だよ」
ガラス玉のように澄み切った瞳が扉を無感動に見つめる様をジェームズは呆気にとられて見ていたが、やがて正気を取り戻して手にしていた箒を側に立てかけての方へ歩み寄る。
「どういう意味?……って聞いてもいいかな?」
本当はすぐにでも質したい気持ちを極力抑えて(だってまたリリーに無視されるのは嫌だし)彼の内では最大限に譲歩してに問いかける。
問われたはしばらく頭をふらふらさせて考え込んでいたが、突如、先ほど伸ばした右手を今度はジェームズの鼻先に突きつけた。
「己にそぐわない知識を得ることは罪悪である。人は余計なものほど知りたがる。身を滅ぼす前にやめることが賢明である」
室内の光だけでは鈍くしか輝かない黒髪の下から覗く黒曜の双眸は不思議なほど妖しく煌いていた。
普段のほんわりした雰囲気の彼女とは似ても似つかないその低い声にジェームズは知らず唾を飲み込み、思わず数歩後ずさる。
だが彼を指す指先は依然、そのまままっすぐにジェームズを示している。
「お師様が行っちゃ駄目って言うから駄目だよ。連れていかれたら、多分、二度と戻れないから」
にこり、と微笑んでは腕を下ろす。
何故だか背筋に怖気を感じて、ジェームズは意味無く眼鏡をかけなおす。
その時にはもうはいつも通りの彼女に戻っていて、先ほど垣間見せた何処か怜悧な刃物を思わせる眸は微塵も存在をみせなかった。
まるで白昼夢でも見たかのように呆けているジェームズを下から覗きこんだが首を傾げる。
「ジェームズ?」
その名を呼んで、ことり、と首を傾げるその様子はいつも知る彼女の姿で。
「え!?あ、ああ。な、何?」
どもりながら何とか返事を返すと、は散らかり放題の店内をぐるりと見渡してやっぱり首を傾げる。
「早くしないとお片付け終わんないよ?」
「あぁ!!大変だやぶ蚊の餌食になるのは嫌だ!片付けるよっまずこれは何処に置いたらいいの!?」
「んーとそれは壁際の棚の上から三段目、右から二番目の引き出しの中。空き瓶はまとめてゴミ袋に入れてね。不燃ゴミの日にキョウが出しにいくから」
急に慌しく室内を右往左往するジェームズにのんびりといつもの調子で指示を出しながらは口の中だけで小さく呟く。
「今はまだ駄目だよね。だってまだあの子は生まれてないし、リリーが悲しんじゃうもん」
あたふたと時折床に転がる酒瓶や本などに蹴躓きながら部屋を片付けるジェームズを眺めながら、ふいにその瞳を切なそうに細める。
幼いばかりの表情がふいに慈愛に満ちた聖母のようにおおらかなものに変わると、は先程よりも尚一層小さく言葉を吐き出す。
「ジェームズはしあわせ。リリーに出逢えてしあわせ。でも、わたしは」
ぎゅっと両腕で自身を抱きしめる。
胸の奥底から溢れ出す恋慕の情は誰に向けられるべきなのか。
「知らなくていい。今は、まだ」
俯いた彼女に部屋の対角から声がかかる。
ー?ここに積み上げてある本は何処に片付けたらいいのー??」
顔を上げれば動き回ったおかげで埃が宙に舞うその向こうにジェームズがいた。
腕に何冊も本を抱えて困りきったようにこちらの指示を仰いでいる。
一瞬作るべき表情を見失ったが、一歩踏み出す内に元の己を取り戻すことに成功した。
へらり、と笑いながら床に散らばる紙片を上手に避けて彼の元へ行き、手元を覗き込んで記憶を辿ると「これはあっち。そっちの革表紙は奥の書庫だから後でまとめて持っていこ〜」と答える。
そのまま忙しなく片付けは進み、夕方になり日が沈むまでは何とか一通り掃除は終了したのだった。

「今日の晩飯は豪華にすき焼きやで〜」
そう言ってキョウが鉄の鍋を持ってきた。
心得たようにがカセットコンロのつまみを捻って炎を生み出す。
ジェームズにはマグルの道具であるそれが珍しくてたまらない。
思わず伸ばした手を正面から閉じた扇でぴしゃり、とはたかれた。
「遊ぶのはご飯の後でね」
銀髪の美人ににっこりと微笑まれて何故か冷や汗が頬を伝う。
今更ながらに隣のシリウスを見やれば、彼は数時間の間にげっそりとやつれていた。
「もー当分掃除なんてしたくねー」
長身の体躯を小さくしてぶつぶつと雑巾の絞り方や畳の拭き方などを呟く親友をうわぁとか思いながら見つめるジェームズの顔に浮かぶのはただ同情のみで。
明日は我が身がこの状況に陥るのか、と自分にもちょっぴり同情してあげたくなったという。




  


完成日
2005/04/01