確かに平凡な日常には飽き飽きしていた。
ちょっとしたスリルを楽しみたくて色々画策したりした。
「だからって!!」
木の根に躓かないように足元への注意を怠らない。
どことなくじめじめとした森の中を必死に走る少年二人。
眼鏡がずれたまま、直す暇もなくジェームズ・ポッターは懸命に両手足を動かす。
顔に浮かぶのは笑顔だが、どことなくというより完璧に引きつり強張った笑みだ。
「こんな危険いっぱいな展開は望んでないよっ」
たまらず叫ぶ彼にやや先行して走っていたシリウス・ブラックは振り返る余裕すらない。
「何でもいいからとにかく走れいいから走れ文句言う暇あるなら走れ!」
額の汗を拭うことなくいつもは品良く、それでいて周囲の異性を惹き付ける要因のひとつとなっている
絶妙な感じで垂れている前髪も今は不恰好に風に煽られるままに後ろへ流れ、汗でしこたま湿っている。
彼らが何故そんなに速く走る必要があるのかというと、原因は二人の後方、十メートルもない距離でぴたりと追ってくる影にある。
薄暗い森の真っ只中で色は詳細に確認できないが、なんとなく赤っぽい。
大きさは彼らの在籍するホグワーツの森番の二倍ほど。
ただし形は定かではない、というより定型を持たないといった方が正しいのかもしれない。
時折びゅっと風を切る音をさせて触手の様なものを伸ばしてくる。
振り返る余裕が無い上に、何より確認するのが怖くて直接目にしてはいないのだが、じゅぅぅ……と嫌な音がして、どこか焦げ臭いにおいが漂ってくるのを鼻で感じた。
そしてその事実は二人の足をさらに速く走らせる要因となったのだ。
幾度目かしれないが、ジェームズの頬を触手が掠めると、いつもは陽気にきらめく榛色の瞳が泣き笑いに歪む。
「謎の生命体に遭遇するなんて僕ってば強運!!」
うごうごずるずるといった効果音を引っ提げて迫ってくるその生き物かどうかも怪しい物体に出会えた奇跡を幸運と思い込みたいという現実逃避。
走りながら意識を飛ばそうとする親友の手を掴みシリウスは走った。
とりあえず、殴り飛ばすのは後でも出来る、と自分に言い聞かせとく。
真昼のノスタルジー
弐、おにごっこ
「そういえば森に入っちゃ駄目って一昨日里の子が注意しにきてたわよ」
麦茶を片手に寛いでいた蓮が何気なく放った一言に、お手製のわらび餅を運んできたキョウが「森ってあの鎮守の森のことですか?」と訊き返す。
彼に手渡されたわらび餅に関心が逸れた蓮は目をきらきらさせて黒蜜ときなこをそれにまぶし、ほどよく冷えた最初の一口を胃に納めて実に満足そうに、幸せいっぱいに息を吐く。
「う〜ん、美味しいわぁ。そうそう、その鎮守の森」
ひとしきり堪能してから蓮は話を続ける。
「何でも今年は宗主の体調がよろしくないとかでまだ祓の儀式が終わってないのだそうよ。それで色々面倒なものがいるかもしれないからなるべく近づくなって」
「宗主さまの体調がようないんですか」
師から聞いた言葉を反芻しながらキョウは広縁に横になり、ぼうっと外を見続けるをちらりと視界に入れる。
すぐにそれをやめ、再び蓮に向き合いながら「でも」と軽く首を傾げる。
「あそこには代々家の姫が張る結界があるやないですか。そうそう簡単に一般人が入り込めるはずないと思いますけど」
「それに里の人間なら絶対誰も近寄らないしねぇ。もし万が一あんたが行ったとしても何とかできないわけじゃないし」
冷菓を次々とたいらげながら蓮も不思議そうに考え込む。
「ま、とにかく立ち入り禁止らしいから。散歩に出て行った二人にも帰ってきたら伝えておいてちょうだい」
皿の上のものを綺麗に片付けて、ごちそうさまと軽く手を合わせると蓮は気だるげな身体をようやく起こす。
「さてと、そろそろお店の方開けようかしら。キョウ、準備の方よろしくね」
「はいはい。これ流しに置いてきたら表の方開けてきます」
なごやかに日常に戻る師とその弟子は、さきほど散歩に出かけた二人がよもや件の森に迷い込んでいるなど露ほどにも知らなかった。
「さて問題です」
鬱蒼と木々が茂り、空の面積はほとんどない。
必然的に太陽の恩恵も得られず、暗く湿った空気の中ジェームズがやけに晴れ晴れとした顔でぴん、と人差し指を立てた。
苔むした岩にへたり込んでいるシリウスが大儀そうにそちらを向く。
「ここは何処でしょう?」
「森」
間髪入れずに即答するシリウスにジェームズはしばし人差し指を立てたポーズのまま固まる。
やがて拳を握り締め、首を左右に激しく振りながら「そんな答えは面白くもなんともないから却下だよ!!」と強く否定した。
「面白い必要がどこにあるっていうんだよっ」
怒鳴り返したシリウスは残っていた気力を使い果たしたのか、再びぐったりと岩に頭を預ける。
一方、腕を組んでむくれた顔をするジェームズはぶつぶつと真面目な反応しか寄越さない親友に文句を言っていた。
その左頬はほんの少し赤く腫れている。
「まあふざけるのも大概にしていおいて。本当にここは何処なんだろうね」
一転して真面目な様子でジェームズが言い、シリウスもようやく顔を上げて周囲を見回す。
危険な生命体からなりふり構わず逃げてきたおかげで今二人は自分たちが何処にいるのか全く見当がつかない。
いや、元々道端で出会った怪しい子供の所為でいきなり森の中に放り込まれたのだから現在地が不明であっても何ら不思議はないと言えばそうなのだが。
「困ったな。杖は置いてきちゃったし」
「どっちに行けば抜けられるのかも判らないしな」
獣道すら見当たらない周囲を見回して困りきったようにシリウスが息をつく。
「ねぇシリウス」
キョウが気付いて自分たちを探してくれるまではこのままかもしれないなーなどとぼんやりと諦めに似た考えを持ち始めた彼の耳に、ジェームズの硬い声が届く。
いつもと声の調子が違うことに違和感を覚えて灰色の双眸をそちらへ向けると、ジェームズは声同様、はりつめた面持ちでこちらを見ている。
「変じゃないか?」
「だから変なのはあのガキに会った時からで」
「そうじゃなくって」
シリウスの言葉を中途で遮ると、ジェームズは言葉を選ぶように逡巡した。
彼がこういう風に何かを言い出すときは珍しい。
しかし真剣な話なのだろう、とシリウスは沈黙を守りながら次の言葉を待つ。
「ここは何だか変なんだよ。蓮さんの家の周囲には他の家が全く見当たらなかった。それどころか僕ら誰一人、村に住んでいる人を見かけてないんだ」
「人が少ない村なんだから当たり前じゃねーの?」
「でも静か過ぎる。こんなに人の気配が全くないのもおかしいよ。僕らさっきの子以外誰にも会ってないんだよ?」
淡々と話していたジェームズは左の指を顎に添えて考え込む。
そんな親友の様子を見ながらシリウスは首をわずかに傾げる。
さやさやと上空で風が流れ、梢が音を立てる。
その葉擦れの音に混じってりん、とかすかに硬質な音が響いた。
気づいたのは考え込むジェームズを眺めていたシリウスで、彼は素早くその場に立ち上がると警戒の色にその瞳を染めながら辺りを見回す。
りぃ……ん、りぃん、と鈴の音は徐々に大きくなって近づいてくる。
その音は耳に涼しく心地良さを仰ぐが、聞く度に心の片隅にちりちりと言いようの無い恐れや不安といった負の感情がくすぶる。
鈴の音が近づくにつれて、この場所から逃げ出してしまいたいような焦燥にかられるのだが、足が地面にぴたりと吸い付いてしまったかのように動かない。
ふと視線をずらすと、ジェームズも眼鏡の奥の榛色を鋭く光らせて、近づいてくる何かを見据えている。
やがて音が間近に響くようになると、それまで何もなかった目の前の空間がざわざわとさざめきだし、鈴の音が一際大きく鳴った。
そしてその余韻と共に現れた影を見てジェームズとシリウスは戦慄が背中を駆ける思いを味わう。
木々の影の下、その色合いの鮮やかさは失われてしまっていたが、それでも忘れようの無いその柄。
面で顔半分を隠したままの怪しげな童子が口元につい先刻も浮かべていた禍々しい笑みを携えてその場に立っていた。
「おまえっ」
最初に動いたのはシリウスで、彼は目の前に現れたここ一時間ほどの奇怪の元凶であるその子供に掴みかかろうとする。
だがその手は届かなかった。
シリウスの指先が童子に触れる寸前で、まるで壁でもあるかのように弾かれてしまったのだ。
衝撃に驚いたシリウスが思わず腕を引っ込めると、子供はにぃ、と嗤う。
「さぁ参ろうぞ、異国の客人達よ。主がそなたらを望んでおられる」
抑揚の無い声音で告げると、くるりとその場で反転して滑るように森の奥へと歩みだす。
「主って誰のことなのかな」
今度は先程のように驚きっぱなしではなかったジェームズが、その小さな背に問いかける。
しかしその背は足を止めることなく感情の全く込められていない声で返答を返す。
「我らが神、母なる祖、偉大なる血統を創りし天の番人」
歌うような調子でそう告げると、その姿は躊躇せずに緑の影に包み込まれてしまう。
その場に残された二人は一瞬目を合わせたが、自分達に残された選択肢が他にないことと、何よりも好奇心が勝って、ひとつ頷き合うと早足で童子の背を追いかけ始めた。
りん、りぃん、と軽やかな音にいざなわれるように。
昼近くなってきて太陽が空高くに昇ると、日差しがきつくなる。
直射日光に当てられて今や縁側は目玉焼きぐらい焼けそうなほどの温度になっているかもしれない。
そんな板張りの床の上に未だに寝転がったままの少女は、つぅ、と汗が首筋を伝うのを感じていた。
「暑い………」
ぼそりと呟いたを涼しい場所に移動させる役目を担うはずの保護者役はいない。
二人はイギリスで、もう一人はこの家の主人の手伝いの為不在だった。
放っとくと干からびるまでこの場にいそうな彼女だったが、ふとその漆黒の瞳を宙に彷徨わせる。
「神サマ、起きてるの?」
ぬるい風が弱く吹いて、風鈴がちりん、と遠慮がちに音をひとつ鳴らした。
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完成日
2005/04/14