僕たちは。
導なき道へ踏み出そうとしている。
その先に何があるのか、知りもしないで。
真昼のノスタルジー
四、みちしるべ
「え、え、えぇ??どうしてここに人がいるんですか!?」
驚きに瞳をめいっぱい見開いたその少年は、夜闇のように光の反射を拒む髪と目の色をしていた。
年の頃は十代に入って少し経った程度だろうか。
やけに幼く見えるその顔立ちは二人を見て驚いている、というよりむしろ怯えている。
「だってここは人が入っちゃいけない場所で……え?えぇ??」
短く切られた黒髪を揺すりながら顔を振り、ぱちぱちと何度か瞬いてジェームズとシリウスを見る。
着ている物はかすり模様の着物で、きちんとしめられた帯や襟元から育ちのよさそうな雰囲気が漂っている。
「えーっと、とりあえず落ち着いて?」
あわあわと慌てて手をばたばた振り、可哀想なくらい混乱する少年にジェームズが声をかける。
シリウスは今日一日の事もあってか、少年を目の前に一瞬身構えるように身体を硬くした。
しかし少年のあまりにも悪気のない風を見て、そっと肩の力を抜いた。
依然、眼光は険しいままだったが。
「と、と、とりあえず、落ち着きます。はい、だ、だ、大丈夫です」
すーはーと息を大きく吸ったり吐いたりしながら少年は徐々に動きを小さくしてゆく。
ジェームズやシリウスは少年を待つ義理など何処にもないはずなのだが、何となくその場に留まった。
放っておくにはあまりにも危なっかしい気がしたのかもしれない。
何度か深呼吸を繰り返して、ようやく最初の恐慌状態から立ち直った少年は、大きな瞳に二人を映し出す。
「えぇと、あなたたちは鬼とか魍魎の類ですか」
「はぁ?」
恐る恐る訊かれた言葉にシリウスが片眉を吊り上げて、灰色の瞳の色を強める。
その迫力に少年はみるみる涙目になり、近くの大木の幹に隠れながら「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と何度も謝りだした。
その小動物然とした行動にひそかに目を輝かせたのはジェームズで。
「あーごめんねぇ別にこのお兄さんは近づいても噛み付きはしないから。ちょっと睨まれたりするけど怖くないし」
こっちおいで〜とにこにこしながら少年を呼ぶジェームズにシリウスは低く「おい」と言ったが無視された。
同時刻、蓮の屋敷内では師匠とその弟子による死闘が繰り広げられていた。
「だーからぁ!あのお客は嫌いなの!ちょっと金持ってるからっていっつもアタシを口説こうとすんのよ!?そんな客こっちから願い下げよ!次に来たら絶対この家の敷居を跨がせないんだからっ」
「そないなこと言うたかてあんな上客滅多におらへんのですよ!?蓮さんこの家の収入分かってへんやろ!?
一年近く俺が家出とったから好き勝手に酒飲みまくってしもうて、貯金にまで手ぇ出すから屋根の雨漏れ直そう思て積み立てとった分がパーやないですかっ」
「だからってあんな象が踏み潰した餅みたいな顔のクソ親父の相手しろっていうの!?」
「蓮さんは結局何もせぇへんやないですかっ」
その言い争いを間近で聞いていたはちょうど縁側に出てきた灰色の縞模様の猫を抱き上げる。
「白熱の口論っていうんだよーとら」
口だけでなく物まで飛び始めた室内からさりげなく避難しながら腕に抱いた猫の喉をくすぐる。
とら、と呼ばれたその猫は満足そうに金色の目を細めて喉をごろごろと鳴らす。
茶碗や皿や新聞や、果ては何処から出てきたのか招き猫や火鉢や当たったら痛そうな角を持つ巨大な本までが部屋を飛び回る。
その様子をおーとかあーとかやる気のない呟きを漏らしながらは見ている。
やがてふと、視線を空へと移した。
「二人は会えたかなぁ」
小さな呟きにはとらが「にゃー」と可愛らしく答えた。
「えと、じゃ、じゃあお二人は人間……なんですね」
「当たり前だろ。何処をどう見たら人間以外に見えるんだよ」
おずおずと訊いた少年にぶすっとした表情で答えたのはシリウスで、その剣幕にまたもや少年が木の後ろに隠れようとするのをジェームズがにこにこしながら着物の襟首を掴んで止めた。
「あの、でも僕は“見える”方だから、たまにここに在ってはいけないモノを見ちゃうんです」
瞳を半分伏せて、何処か寂しそうに彼は言った。
「ここに在ってはいけないモノ……」
「はい。えーっと、幽霊とか鬼とか。ほとんどは悪さもしないし、放っておいてもいいんですけど。中には色々思い詰めてしまったモノもいますから」
ジェームズが繰り返した言葉に少年は付け足す。
「あ、そういえばまだ名乗ってませんでしたよね。僕は春雅といいます」
「ハルマサくんね。僕はジェームズ、あっちはシリウスだよ」
「じぇーむずさんにしりうすさん?随分変わったお名前なんですね。どんな字で書くんですか?」
「………」
「………えーっと」
きょとん、と首をかしげて問うてくるその純粋な瞳にジェームズはかける言葉もなく視線を泳がせる。
シリウスは腕を組んでそっぽを向いてしまったから当てにならない。
「僕らイギリスから来たんだ」
「イギリスって海の向こうですよね?そんな遠くからどうしてこんな山奥に来たんですか?」
「あーいや、うん。ちょっと色々はしゃいで怒られちゃって」
森の出口まで案内してくれるというので、三人は歩きながら話していた。
主に自己紹介を兼ねたジェームズの嘘か本当か分からない微妙なラインの英雄譚であったが。
「ねーハルマサくんは一人っ子?」
シリウスはいきなり何を言い出すんだ、とジェームズを胡散臭げに見る。
突然話を変えられて戸惑いながらも春雅は首を傾げて答える。
「兄が一人いますけど」
「そうなんだ。僕は一人っ子だけどシリウスには弟がいるんだよ」
「へーそうなんですか。きっといいお兄さんなんですね、シリウスさんは」
「んなっ」
にこにこと邪気の無い笑みでほのぼのと「なんだかそんな感じがしますー」と言われ、シリウスは絶句する。
がさがさと伸び盛りの下草を踏み固めながら歩いていくと、段々と明るくなってくるのが分かった。
「あ、もうすぐ森を抜けられますよ」
先頭を歩いていた春雅が振り返ってにこりと笑う。
「でも本当に不思議だな。この森は普段は僕らの一族でも直系の人しか入れないのに。どうしてお二人は入れたんでしょうね」
本当に不思議だと、彼はことり、と小さく首を傾げる。
「連れてこられたんだよ。変わったお面をつけた子供の姿をしたゴーストに。」
「え」
「君達の言う言葉だと“ここに在ってはいけないモノ”かな。とりあえず人間ではなかったよ」
その言葉に、春雅は目を見開く。
驚愕と、恐怖で彩られたその表情にシリウスが訝しげになりながらも一応心配してどうしたのかと声をかけようと手を伸ばす。
「おい、大丈夫か……」
「!」
瞬間、多分春雅が意識するよりも早くその手ははねのけられていた。
「あ……」
怒るよりも先に単純に驚いて、シリウスがその瞳を丸くしていると、春雅は泣きそうに眉を歪めてその場に立ち尽くしている。
そんな彼を怒るに怒れず、どうしようかとシリウスが考えあぐねていると、二人のやりとりを目を眇めて見ていたジェームズが静かに口を開く。
「ねぇ、ハルマサ。君はもしかしてって家のこと知ってるんじゃないかな」
びくり、と呼んだ相手の肩が震えるのを見ながら続ける。
「僕らついさっき女の子に会ったんだ。その子の姿は僕らがよく知っている友達のモノでね、って家の子なんだけど。どうも彼女には秘密がありそうなんだ」
「ジェームズ」
「黙って、シリウス」
榛色に抗えないほどの畏怖を抱かせる強い光を宿しながらジェームズは一歩ずつ春雅に近づく。
春雅の顔色が蒼白になってゆくのに気付いたシリウスが口を挟むが、ぴしゃりと言い返され黙ってしまった。
「その子の姿、ちょっとだけ君に似ている。ねぇ君にはお姉さんか妹がいるんじゃないのかな」
「……い、ません……」
口調だけは優しいものだが、ジェームズの声は答えることを拒否することを許さなかった。
か細く聞こえた声にシリウスが短く息を吐いて「もういいだろ」と諌めるようにジェームズを見る。
「知らないんです、ごめんなさい。僕は、本当に何にも知らなくって」
項垂れて、落とされた肩が震えている。
さすがにやり過ぎたか、とジェームズが少しだけ反省して謝ろうと口を開きかけたとき。
「春雅か?」
森の入り口から声がした。
落ち着いた、耳に涼しい声音の持ち主は、しかし森の外からの光が逆光になって明確な姿が見えない。
その声に弾けるように顔を上げた春雅は「兄上!」と言った。
そして兄と呼んだ影に走り寄っていく。
途中一度だけ振り返って、申し訳なさそうに二人を見た。
「あの、もう森を抜けられると思いますから……僕はこれで」
「……悪かったな、色々」
ジェームズの代わりにシリウスが答えた。
春雅は「いいえ」と困ったように微笑いながらぺこりと頭を下げて再び走り出す。
入り口で待っていた兄と合流すると、一言二言何か会話をしてやがて二人は立ち去った。
こちらに背を向ける前に兄の方が遠目に見てもはっきり分かるほど綺麗にお辞儀をして。
森を抜けて、そうしてようやく朝歩いた覚えのある道に出たとき、太陽は既に傾きかけていた。
山深くあるこの場所は日の入りも早い。
今日も信じられないくらい鮮やかに空を染める準備をしつつ、日輪は徐々に朱に色を変えてゆく。
「あの子、ハルマサくん。の兄弟だよねぇ」
「確かにちょっと似てたけどな」
舗装されていない畦道をゆっくりと歩きながらぽつり、ぽつりと会話をする。
根拠のない確信を抱くジェームズと違って、シリウスの方はまだ疑問を多く含んだ答え方だ。
「でもに兄弟いるって話、聞いたことないんだけどなー」
腕を頭の後ろで組みながらジェームズは空を仰ぐ。
今更気付いたのだ。
自分達は本当に彼女のことを何も知らない。
「兄貴がいるっつう話なら聞いたことあるぞ」
湖面に浮かぶ月と、そして思い出したくないが大イカという余計なオプションまで頭に思い返してしまったシリウスが鳥肌をたてて腕をさする。
「何か、おまえに似てるとか似てないとかそういう話」
「えぇ!?僕に??じゃあさぞかし男前なんだね」
「………何でだよ」
自意識過剰な親友を冷めた目で見返してシリウスが先を歩く。
「開けてはいけないパンドラの箱、かな」
立ち止まって呟いたジェームズの声は風に吹き消される。
「何か言ったかー?」
シリウスが振り返って言うのに「何でもなーい」と明るく言って、少しだけ走って彼に追いついた。
それからぐだぐだと話したり、時々絞め技をかけ合ったりしながら歩いて、ようやく蓮の家のあの見事な向日葵が見えてきた。
夕日に染まるオレンジ色の向日葵の影に小柄な人影があった。
その影は近づいてくる二人に気付いてそちらを向くと、にこーっとゆるく微笑んで、
「おかえりなさい」
と言った。
「!」
言って先に走り出したのはシリウスで。
寝癖でくしゃくしゃになった髪を見て小言を言う彼にゆっくりと追いつきながらジェームズはもう一度、森を振り返る。
夕暮れどきの森はどの時間よりも禍々しく暗かった。
僕たちは、しるべのない道へ足を踏み出した。
その先に例え何があっても。
最早歩みは止められない。
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完成日
2005/05/07