「たった一つの願いじゃないかっ」
声を枯らして彼は悲痛な叫びを上げる。
曇天の空は限界まで湿り気を含んだ雲で覆いつくされ、大粒の雨がぽつり、ぽつりと落ちてきた。
血が滲むほど握り締めた拳を地面に叩きつけて彼は憤りを露にする。
そんな彼のあまりにも寂しい背を見つめながら、彼女は菫色の瞳をゆっくりと伏せた。



万屋懐古堂



毎日がゆっくりと過ぎていった。
いつものように朝早くに目が覚めれば、既に起きて朝食の用意をしているキョウに「寝坊せんかったんやなー偉い偉い」とまるで子供にそうするように頭をがしがしとかき回され、元々強烈に癖がついている黒髪がさらに酷いことになった。
親友の方を見やれば彼もキョウに同じことをされたらしく、不機嫌な顔で野菜を運んでいた。
ジェームズよりもシリウスの方が拳二つ分くらい背が高い。
しかしキョウはそのシリウスより拳一つ分、背が高いのだ。
その事が密かにプライドの高いシリウスを刺激していることをキョウが知っているのかどうかは不明だ。
恐らくは分かっていてやっているのだろうが。
「ふぁ……今日の朝ご飯は何?」
欠伸を噛み殺しながら訊けば、キョウはまな板の上で野菜をリズミカルに刻みながら答える。
「ご飯と味噌汁、具はなすびやな。後はねぎ入り卵焼き、鯵の開きと漬物やな」
「納豆はないんだな」
朝採りの新鮮で瑞々しい野菜の泥を流しで洗い流しながらシリウスがほっとしたように息をつく。
来て間もない頃、朝食に出た納豆の強烈なにおいと粘り気ある食感に、腐ってもお坊ちゃまのブラック家の長男は耐えられなかったのだ。
ジェームズの方は物珍しそうに長い時間かき混ぜて、炊き立ての白いご飯の上にかけてずるずると平気で食べていたが。
「あははっ心配せんでも二度とシリウスには出してやらんから安心しぃ」
刻んだ野菜を煮え立つ鍋に放り込みながらキョウが軽快に笑う。
「アレは人間の食べ物じゃねーよ」
「日本の食文化にも慣れてもらいたんやけどなー。まぁええわ。ジェームズ、火加減見てくれるか?」
「了解」
こうして男三人が作り上げた朝食が食卓に並ぶ頃にふらふらと蓮が起き出して、未だ夢の中であろうをキョウが起こしにゆく。
全員が揃った所でようやく「いただきます」と箸を持つのだ。
何気ない日常だったが、殺伐とした家庭で育ったシリウスにとっては何よりも眩しいものだった。

朝食が済み、蓮は寝巻きから着替える為に一度自室へ戻る。
後片付けをしているキョウは台所へ引っ込み、茶の間にはジェームズ、シリウスとの三人が残された。
思い出したように宿題を始めるジェームズの横でシリウスはの寝癖だらけの髪を櫛で梳いてとかしてやる。
ノースリーブの藍染で膝丈のワンピースを纏ったの剥き出しの肩が細くてすべすべしてそうで思わず触ってみたくなったのは健全な男の子だからしょうがないんだ、と自分に言い聞かせる。
「ったく、折角綺麗な髪してんだからちゃんとすりゃいいのに」
「うーん、でもいつもリリーとかキョウとかがやってくれるよー?」
「その二人が両方いない時はどうすんだよ」
言葉は乱暴、しかし口調にはぶっきらぼうだが優しさが滲んでいて。
もそれを分かっているからふにゃり、と笑って頭を彼に預ける。
途端、シリウスの頬が少しだけ赤くなる。
その様子を宿題をするフリをしながらこっそり眺めていたジェームズは「青春だねー青臭くていいなぁ」などと親父くさい感想を持ちながら持っていた羽ペンをくるりと回した。
の寝癖がすっかり綺麗になる頃、着替えた蓮が再びやってきた。
生成りの地に青やピンクの紫陽花の大柄が鮮やかな着物を粋に着こなして。
髪は上品に纏め上げて、小さな鈴がついたかんざしをさしてある。

「お師様今日もきれい〜」 の声に我に返ったのは思わず蓮に見惚れていた少年二人だ。
「うふ、ありがと。も可愛くしてもらったわね」
シリウスの手によって艶々と輝く黒髪を撫でながら蓮は微笑む。
「蓮さんお店の方もう開けてもええですか」
洗い物を片付けたキョウが手を拭きながら奥からやってくる。
彼に振り返りながら蓮は「えぇ。お願い」と言ってを伴い店の方へ歩いてゆく。
「アナタ達も来なさいな。社会勉強になるわよ?」
半ば命令のように出た蓮の言葉にイギリスから来た少年二人は「げぇ」と顔を顰めたのだった。

蓮が主を務める店、『万屋懐古堂』というのは不思議という一言に尽きる店だった。
アジアンな雰囲気が漂う店内には所狭しと本やガラス瓶や色々な紙の束や薬草と思われるにおいの強い華を乾燥させたものがひしめき合い、 壁には見慣れない文字で構成された魔法陣らしきもの、作り付けの棚にはこれまた本、本、本と本の山だ。
住居部分は裸足だが、店の部分は土足なのでそれぞれ草履やつっかけなどを履く。
蓮は店の奥に当たる部分で長椅子にゆったりと座り、注文書らしき紙の束をぺらぺらと捲りながらキョウに指示をだしていく。
「キョウって本当に何でもやるね」
端の方で邪魔にならないように客の対応をするキョウの姿を目で追っていたジェームズが感心したようにそう言った時、シリウスは自分の足に頬杖をつきながら何処かぼんやりと別の方向を見ていた。
「シリウス?」
「ん?あぁ悪い、聞いてなかった」
名を呼べば顔を向けて謝る。
不思議に思ったジェームズが先ほどまでシリウスが見ていた方向を辿ると、そこにはがいた。
黒い双眸は中空のある一点を凝視している。
しかしその先には漆喰の白い壁があるばかりで何も見当たらない。
?」
「さっきからずっとあっち見たまんまなんだよ。時々なんか首縦にふったりしてるし」
頭おかしくなってんじゃないかと思って、と心配そうに再びを見るシリウス。
「んーは僕らとはちょっと見てる世界が違うからなぁ」
「何言ってんだよ」
そんなことあるはずないとでも言いたげな、シリウスのじとっとした視線から逃れるようにジェームズはあさっての方向に顔をそらした。
「お客さん」
ふいに聞こえた少女の声にジェームズとシリウスは店の入り口に目をやる。
が、誰も入ってきた気配はない。
「誰か入ってきた?」
隣のシリウスを見上げて聞いてみるが、ジェームズの問いに彼は首を振る。
「誰か入ってきたのか?何も見えねーけど」
「あーおまえらには見えへんのかもしれへんな」
「キョウ」
「見えないってどういうこと?」
店の奥に用があってやってきたキョウが二人の横にある棚を漁りながら何気なく言う。
疑問を口にしたのはジェームズで、シリウスは目をこすったり瞬かせたりしながらがこくこくと誰かに話しかけられて頷いているかのような様子を目をこらして見ている。
「ここの客で生身の人間なんかほんの一握りやで。大抵はもうこの世の者じゃない奴らがほとんどや」
ラベルの貼られた瓶を一つ一つ確かめながらキョウが答える。
「は……ぁ!?」
「えぇ??それってそれって!ゴーストってこと!?あれ?でもそれなら僕やシリウスにも見えるよね」
何気なく言われた言葉にシリウスは頬杖していた手を外してしまいずっこける。
興奮したジェームズが更なる疑問に首を傾げる。
「キョウ、お客さん。いつものアレ頂戴って」
からころと下駄を鳴らしてがやってきて、キョウが着ている浅葱色の着物の袖をくいと引っ張る。
袖を引っ張られてキョウがその焦げ茶の瞳をジェームズとシリウスには『見えない』誰かの方へ向ける。
そして納得したように「ああ」と小さく頷いて、商品を取りに一旦店の奥にある倉庫の方へ向かった。
「ねー、今来てるお客さんはどんな人なの?」
興味本位でジェームズがわくわくとしながら聞けば、はことり、と首を傾げる。
「えっと、奥さんに先立たれたおじーさん。死んでからも奥さんに逢えなくってたまに来るの」
「奥さんに?」
「うん。お師様に頼めば“想い出”の中にある奥さんに逢わせてもらえるから」
ちょうどそこへキョウが店の奥から戻ってきて、やはり姿の見えない客に一言二言話しかけると、最後は笑顔で手を振った。
「えーっと、そのお客さんはもう帰ったのかな」
困惑しながらジェームズが頬を掻くと、ちりんと涼しげな鈴の音をさせて蓮がこちらを向いた。
「帰ったわよ?あー疲れちゃった、ちょっと休憩するわ。キョウ、何か冷たいもの持ってきてー」
椅子にだらりと寝そべりながら言う蓮にキョウは苦笑しながら「はいはい」と返事をする。
「お手伝い〜」
も一緒に家の方へ行ったので、その場には蓮とジェームズ、シリウスだけが残された。
「あの、聞いてもいいですか。どうしてやキョウには見えるのに僕らにはここのお客が見えないんでしょう?」
ジェームズの控えめな問いかけに、蓮は菫色の瞳を眇める。
「見たいの?」
逆に問いかけられて返答に困っていると、それには構わずに蓮は口を開く。
「見えない方がいいってこともあるわよ。何でもかんでも見えちゃうと、見えすぎると困っちゃうことの方が多いんだから。普通でいられるなら、その方がどんなに幸せか。まだ若いアナタ達には判らないかもね」
何処か寂しそうにとキョウが行った奥を見つめながら蓮は更に続ける。
「このお店はね、魔法の道具を売ったり魔法そのものを売ったりもするけれど、本当にここを必要として、ここに来たくて来る人はね。逢いたい人がいるのに逢えない、そんな人が来るのよ」
「会いたい人……」
ほとんど無意識に繰り返されたシリウスの言葉にゆっくりと頷いて、蓮は肩にかかった髪を指で払う。
「そう。だからあたしは想い出を見せてあげるの。記憶の奥底から大事なきらきらした想い出を掬い上げて、ほんの少しの間だけ夢を見せてあげるのよ」
やんわりと微笑んで蓮は遠くを見つめる。
その顔には後悔と、懺悔と、諦めに似た焦燥が隠れていたが、其れ故の美しさに目を奪われているイギリス生まれの二人の魔法使いの卵達には気付かれなかった。

目を伏せた蓮の瞼の裏には過去が映っていた。
降りしきる雨の中で聞く者の心を哀しく締め付けるような泣き声を上げながら何度も何度も握り締めた拳で石畳を叩き続ける黒髪の少年。
叩きすぎた手は薄い皮膚が破れ、血が流れている。
痛いだろうに、と蓮はそれを見ていた。
だけど彼にとってそれ以上に痛い事実が目の前にあるのだから、肉体の苦痛など今は感じられないのだろう。
「たった一つの願いじゃないかっなのにどうして叶わない!?」
喉の奥から搾り出された慟哭に、蓮もまた胸を痛める。
どんなに願っても叶わない。
そんな現実を目の前に突き出されて、彼はどれほど絶望しただろう。
「ねぇ、闇の帝王サマ……いいえ、トム・マールヴォロ・リドル。アナタはまだ願い続けるの?」
絶望しきった後の、昏い情念に満ちた紅の双眸を思い出しながら蓮は心の中でそっと問いかける。
答えを返す者は今はここにいない。




  


完成日
2005/05/27