手放した絆
暑い、というよりむしろ熱いと言った方が正しい気がする真夏の午後だが、空にもくもくと吐き出された入道雲によってようやく夕刻に近づきつつあることを示していた。
イギリスと違って肌にまとわりつくような湿気とうだるような暑さのおかげで、はるばるイギリスから来た五人は蕩ける寸前だ。
冷房や扇風機など当然あるはずも無い蓮の屋敷で涼を求めようとすれば、時折吹く微かな風が揺らす風鈴の音と、庭に水をまくこと、そしてキョウが出してくれる三時のおやつぐらいしかない。
キョウはある程度イギリス組の様子を想定していたらしく、苦笑しながら冷たい菓子を作ってくれる。
本日はかき氷だった。
イチゴやメロンなどの目にも鮮やかなシロップをかけて、初めて目にするその氷の粒にジェームズやシリウスはとにかく何でもいいから涼しくなりたいと一気に喉へ流し込み、結果突如として襲い来るきーんとした鈍い頭痛に悩まされたりもしていた。
「馬鹿ね」
「本当だね」
上品にすくって口に運びながらリリーが氷よりも冷たく切り捨て、イチゴの赤が見えなくなるほど練乳をかけたリーマスが隣でひそかに胸焼けを起こすピーターに気付かずにうきうきとしながらスプーンを握る。
キョウは庭に出て乾いた洗濯物を取り込んでいるし、はというと、窓の前に置かれた文机に向かってきちんと正座をして何やら書いている。
「何書いてんだ?」
珍しく机に向かってもちゃんと起きているの肩越しにシリウスがひょいと覗き込む。
机上にはシンプルな、しかし美しい色の手触りも良さそうな紙片が数枚散らばっていた。
インクをたっぷりつけたペンをゆっくり動かし、間延びしたアルファベットを綴りながら鼻歌混じりには文字を書き連ねる。
そこへ縁側からふかふかに太陽のにおいのする洗濯物を両腕に抱えてキョウがやってきた。
「セブへの返事書けたんかー?」
シリウスと同じようにの背中から顔を覗かせる。
腕に抱えた洗濯物はピーターが半分持ってくれた。
おおきにーとのんびりお礼を言っている間に、宿敵ともいえる人物の名を耳にしたシリウスの機嫌がフリーフォールのようにまっすぐに下降する。
「……何だって?」
ぎちぎちと音が鳴りそうなぎこちなさで首をまわしてキョウを見上げたシリウスの顔にはばっちり「説明しろ」との意思が書かれている。
「休み前に言うてたやろ。汽車ん中で。一昨日ぐらいに手紙届いてん」
「あぁ、そういえば」
「言ってたわね。そんなこと」
リーマスとリリーが思い出して、ぽんと手を打つ。
庭に咲いた向日葵が暑さのせいで項垂れている。
鮮やかな空の蒼と花の黄色が夏の盛りを告げている。
その黄色を目にしながらキョウが「そろそろやなぁ」と軽く独り言を言ってピーターと一緒に洗濯物を抱えて奥へ引っ込んだ。
「」
「んー?」
シリウスは真剣に机に向かうの肩を掴んでこちらへ向けさせると、
「捨てろ」
と一言、が一所懸命に書いていた手紙を見ながら部屋の隅の屑籠を指差す。
「お返事書かなきゃ」
「いいんだよ。スネイプの野郎なんかにはそんなもん出さなくっても」
「でも約束したんだよ?」
きょとん、と無邪気に見上げるの黒い瞳にシリウスは怯む。
言葉を詰まらせる彼を見てリーマスは情けないなーとため息をつくと、二人の下へ寄る。
どげしっとシリウスの尻を蹴飛ばす。
弾みでシリウスは顔から柱へ突っ込んだ。
「リーマス!おまえなぁっ!!」
鼻を押さえながら憤怒する親友なんぞさらりと無視して、柔和な笑みを浮かべたリーマスはぽんぽんとの頭を軽くたたく。
「手紙を貰ったら返事を書くのなんて当たり前だよね。シリウスったら常識がないなー」
「ねー」
二人して小首を傾げてシリウスを暗に責める。
「何だよリーマス!おまえだってがスネイプに手紙なんか書いてるの嬉しくないだろ!?」
同じ少女を好きな者同士として理不尽な親友の態度に怒り出すシリウスをジェームズがまあまあと宥める。
「返事くらいは書かないと。一応礼儀みたいなものだし、それに自分が書いた手紙に返事が返ってこないってすごく辛いよ……」
言葉の後半はものすごく落ち込んで疲れ切った微笑を浮かべつつ彼は自分の恋人を横目でちらりと目にする。
「いくら愛を手紙に託しても暖簾に腕押し、まったく無視。ようやく返事が返ってきたかと思ったらたった一言『鬱陶しい』……こんなのじゃいくら僕でも落ち込むよ。だから手紙には心を込めるべきだよ、そう思わない?リリー」
「そうね。相手によって心の込め方を変えればいいのよね」
「違うよリリー!僕が言ってるのはもっと真心と真実の愛がこもったラブレターが欲しいってこと!!」
「そんなもの貴方に送ったら気持ち悪いじゃないの」
「ひどい!リリーは僕に冷たすぎるっ」
かなり一方的な痴話喧嘩を繰り広げる二人など全く気にしないリーマスは、と視線を合わるためにその場にしゃがむ。
「ね、。僕も後でに手紙書くから、そうしたら返事くれるかな?」
訊かれてはうーん?と軽く首をかしげる。
「お手紙くれるの?」
「そう」
ことり、と首を傾げた拍子に黒髪がさらりと肩からこぼれる。
蒸し暑い中彼女は汗のひとつもかいていない。
やはり慣れなのだろうか。
そういえば蓮やキョウもシャツ一枚でいても暑い暑いとだれている自分達とは正反対で、きっちりと着物を着ているのに涼しい顔をしている。
こっちで暮らすのは大変だなーと思いながらリーマスはの返事を待つ。
「お手紙貰うの嬉しいから好き。お返事書くの楽しいから好き。リーマスにも書くよ?」
へにゃりと相好を崩して微笑む少女にその場に居合わせた四人に「可愛いなー」と、共通の思いがよぎる。
「じゃあ!俺も……!」
彼女が返事をくれるというのでぱっと顔を輝かせたシリウスが、今は無いしっぽを恐らくはめいっぱい振っているであろう様子でに期待を込めた目を向けるが。
「シリウスには書かなくていいよ。だって返事なんかゴミ箱に捨てろって言うくらいだし。それにいつもいっぱい手紙貰ってるからいらないんじゃないかな」
「リーマス!!」
さらりと投げつけられた言葉にシリウスが眉を吊り上げて大声で親友の名を呼ぶ。
そのままリーマスの襟首を掴んで「余計なこと言うな!」と至近距離で怒鳴るが、怒鳴られているリーマスは澄ました顔で全く請合わない。
そのまま喧嘩に発展しそうな雰囲気だったが、リリーが軽く雷を落としてその場は収まった。
「はスネイプからどんな手紙もらったの?」
あわよくば次に顔を合わせた時にからかってやろうと考えるジェームズが、もちろんそんなこと全く考えてませんよ?といった風を装ってに聞く。
しかし当人にその声は届いていなかったようで、はぼんやりと開け放されたままの庭を眺める。
「?」
「お客さん……」
ぽつりと呟かれた言葉が耳に入ったのでつられて庭に目を向けると、家の前の坂道を誰かが上ってくるのが見えた。
陽炎の中、ゆらめく人影はよく見えなかったけれど、近づいてくるにつれてそれが黒髪で、背の高い男性だということが判った。
向日葵の垣根をまわって庭先にやってきたその人物は、屋敷の中にいる人物を順に眺め、最後にを見て少しだけ微笑むと、「こんにちは」と耳に涼しい声音で言った。
年はジェームズ達より少し上だろうか。
黒髪に柔和な印象を受けるが、しかしそれでいて意志の強そうな光を湛えた切れ長の黒い瞳。
朽葉色の衣を身に纏い、手には風呂敷包みを抱えている。
落ち着いた雰囲気と優しげな面立ち、そしてまっすぐに伸ばされた背筋が印象的だった。
「こ、こんにちは……」
反射のように挨拶を返したジェームズだったが、不意に感じる既視感に軽く眩む。
「蓮さんに会いたいのだけれどいらっしゃるかな?」
問われて、動けないでいるジェームズの代わりに今度はリーマスが立ち上がって奥へ彼女を呼びに行く。
その間、庭先で立ったまま待つ少年に気付いたリリーが慌ててテーブルの上の食器を片付ける。
「あ、あの、上がってください。ここは私の家じゃないから私が勧めるのもおかしいんですけど」
「ありがとう。でもここで構わないよ。すぐに済む用事だから」
リリーにゆったりと微笑みかけて、彼女が思わず顔を赤らめるのを特に何も言うでもなく黙って見ている。
その横顔へ、視線を感じた彼がゆっくりと振り向くと。
黒髪の少女がひたむきにこちらに視線を注いでいた。
それに何か言おうと口を開きかけた時。
「あらー保雅じゃないの。久しぶりねぇ」
家の奥から主であり、彼の用事の相手でもある蓮が現れたので保雅と呼ばれた少年はすぐに正面に向き直る。
縁側に柱に凭れながら立つ蓮に丁寧に頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
「ホントウにね。お父様のご容態は?」
「お蔭様で快復の方向へ向かってます。祭の前には祓の儀も終えられるかと」
「そう。良かったわね」
恐らく本心からではない蓮の言葉に保雅は軽く苦笑する。
「今年も例年通りに祭を行いますので、よろしくお願いします。の宗主に代わって若輩者ですが、この保雅がご挨拶に伺いました」
言って、まっすぐな眸を向ける彼に蓮は苦しいような、それでいて憐れむような微笑を向ける。
「いつもの通りにお持ちいたしました。ご確認ください」
「えぇ。ありがとう」
保雅に手渡された風呂敷包みを受け取って、軽く目を閉じた蓮は満足そうに頷く。
「たしかに受け取りました。後は祭本番まで気を抜かないようにね。お父様にもくれぐれも体調に気をつけるように言っておいてちょうだい」
「伝えておきます」
短いやりとりだった。
具体的な説明など何一つとしてない会話からは目の前に立つ少年が保雅という名前だということしか判らない。
後は、と。
そう言ったことから彼がと何か関係のある人物なのかもしれない、ということだけ。
畳に胡坐をかいたまま考え込むジェームズがぼんやりしている内に客人は用が済んだらしい。
「ではいつもの通りに」
もう一度綺麗にお辞儀をしてから保雅は自分を見つめる少女へ少しだけ視線をずらす。
「……よい夏を」
優しげな眼差しにどこか翳が差した気がした。
「さよなら……」
が小さく返すと、彼は着物の裾をさばいてその場を後にした。
その背が向日葵の向こうに消えて、坂を下りる背が再び陽炎に包まれた頃にようやくその場の空気が動き出した。
「緊張したわ」
微かに赤いままの頬を押さえながらリリーがほっと息をつく。
「あんなに綺麗な人見るの初めて。びっくりしちゃった」
ぱたぱたと手で火照った顔を仰ぎながら言う赤毛の美少女にシリウスがにやにやしながら「何だよ、リリーはああいうのが好みなのか?」と先程の仕返しとばかりに意地悪げに問い、リーマスは「よせばいいのに。どうせ勝てっこないんだから」と呆れたようにそれを眺める。
そんな中、ジェームズは未だに何かを考え込み、はずっと庭へ顔を向けたままだった。
その夜。
あてがわれた部屋では今頃シリウス、リーマス、ピーターの三人がぐっすりと眠っているだろうと思いながら、ジェームズは一人起きて縁側で空に浮かぶ月を眺めていた。
満月まであと少し、といった今宵の月は少し欠けてはいるものの、充分に明るかった。
静かに冷たい光を注いでくれるこんな月夜は考え事にはうってつけだ。
ジェームズは眼鏡を外してフレームをいじりながら昼間来た保雅という人物に感じた既視感を必死に辿っていた。
どこかで見たはずだ。
どこかで聞いたはずなのだ、あの声は。
一体何処で?
そう思ったときふと甦る彼の丁寧なお辞儀。
「思い出した!あの人あの森で会ったんだ!」
記憶のパズルが完璧にはまってジェームズは今が真夜中だということも忘れて思わず大きな声を上げる。
つい最近のこと。
妖に誘われ深い森の奥底へと連れていかれたジェームズとシリウスは、春雅という少年の案内でようやく帰ってこられた。
その時に春雅を迎えに来ていた人物、彼はその時の声の人物に違いない。
「あの人もの関係者なのかな……」
「何やジェームズ起きとったんか」
「うわぁ!?って、キョウか〜おどかさないでよ」
突如頭の上から降ってきた声に吃驚してみれば、寝巻き姿のキョウが縁側に座るジェームズを見下ろしている。
「夜更かしはあかんで」
「キョウこそ随分遅いじゃないか」
「俺は明日の朝飯の下ごしらえして今風呂から上がったんや」
手にしたタオルをひらひらと見せながらまだ湿ったままの亜麻色の髪を首から下げた方のタオルでがしがしと拭く。
そんな彼を見てジェームズは疑問を確かめてみたい衝動に駆られていた。
目の前に己では理解できない設問が転がっていると、たとえ何であっても拾い上げて答えを求めずにはいられない。
自分でも少々厄介な性格だとは思うが仕方が無いと、ジェームズは思っている。
「ねぇキョウ」
だから訊いてしまっていた。
「昼間来たヤスマサさんっての何?」
「何や突然」
「突然、じゃないよ。僕はこっちに来てからずっと何か大きな力に引きずり込まれているような気がしてならないんだ」
ジェームズがいつになく真剣な目で見るものだから、のらりくらりと適当にかわそうとしていたキョウの焦げ茶色の瞳がすっと細められる。
タオルで髪を拭くのをやめたキョウがジェームズを無表情に見つめるのにも構わずに、続ける。
「おかしいんだよ、何だかこの村は変だ。どうしてこんなに人がいないんだ?の故郷ならどうして誰も彼女に会いに来ない?ヤスマサさんはの何なの?」
真摯に詰め寄るジェームズにはぐらかすことなど出来ないと悟ったキョウはゆっくりとその場に腰を下ろす。
ジェームズと同じように月を眺めながら彼は小さく呟くように告げる。
「保雅さんとは兄妹や。正真正銘血の繋がった、な」
ジェームズが小さく息を呑んだ。
信じられない、とキョウを見つめる榛色が言っている。
「兄妹……?でもたった一言しか言葉を交わしていないじゃないか」
ホグワーツは全寮制だ。
学校のある間は親元を離れて生活する。
その間家族には会えず、だからたまに家に帰ると迎えてくれる家族にほっと胸を撫で下ろすのだ。
もっとも両親と反りのあわないシリウスのような例もあるのだが。
だがとてもじゃないが、がそんな風に家庭を乱すような子には思えない。
「それが約定、まぁ掟みたいなもんやな。ちょっとだけ昔のことやけどな、保雅さんはを守るために春憲さん―あぁ、の父さんやけどな。
その春憲さんと約定を交わしたんや。を生かす代わりにが生きとる間は一切の者と関わらせない。喩え同じ腹から生まれて血を分けた兄妹であってもな」
冷たく感情の篭らない声で淡々と告げるキョウにジェームズは目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってよ!生かす?を??一体何のこと!?」
慌てて問いを重ねるジェームズにキョウは無表情に整った顔を向ける。
その口から出た言葉に今度こそジェームズは凍りついた。
「はな、の家に生まれた娘という理由だけで実の父親に殺されかけとるんや」
「嘘……でしょ………が?どうして……」
あまりの内容に頭がついてこられなくなっているジェームズを黙ってキョウは見つめる。
完全に思考が混乱しているジェームズにやがて興味を失ったのか、立ち上がり部屋を横切る。
廊下に出る寸前、振り返ったキョウは今までに無い強い口調でジェームズを諌める。
「あんまり深入りせん方がええ。の血の呪いは深い。おまえらが何人束になっても太刀打ちなんかできへん。死にたくないんやったら知らんフリして大人しゅうしとき」
最後には気遣うように、そう言ってキョウは自室へ引き上げた。
後に残されたジェームズは未だ纏まらない頭の中で必死に考え続ける。
なぜ、どうしてが?
だがいくら考えても答えなど出るはずも無く、そんなジェームズを傾きかけた月が静かに照らすだけだった。
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2005/06/25