小さく鳴らされた警告のシグナルを聞こえないフリをして無視した。
耳を塞いだ代わりに見てはいけないものを見た。
月を仰いで
夜空に今までに無い特大の花火が打ち上げられると祭りは終わりだ。
あれほど賑わった神社の参道も、軒を連ねていた露店が店じまいを始めると途端に静けさが戻ってくる。
まだ灯りの燈されたままの提灯がちらほらと見られるが、じきに誰かの手によって火は消され、下ろされていった。
はしゃいだ空気の名残を引きながら七人は蓮の家に帰る。
「いたた……」
「リリー?」
畦道を歩いている途中でリリーが顔を歪めて立ち止まる。
隣を歩いていたが心配そうに見上げると、彼女は何でもないわ、と無理に微笑んでみせる。
「どうしたのリリー?」
前を歩いていたジェームズが気付いて駆け寄ってくる。
「ううん、本当に何でもないの。ちょっと足が痛むだけで」
「足?ちょっと見せて」
言うなりジェームズは彼女の足元に跪き、浴衣の裾から覗く細い足首を手に取る。
「うーん、捻ったんじゃないよね。腫れてはいないし」
「どないしたんや?」
のんびりとリーマスと一緒にやリリーの後ろを歩いていたキョウが追いついてジェームズの肩越しにリリーの様子を伺う。
そうしてジェームズの手の中にある彼女の下駄を履いた足先を見て得心したように一つ頷く。
「履きなれんモン履いて下駄の鼻緒で足痛めてしもたんやな。ジェームズ、リリーに肩貸してやり。リリー、その肩にちょお座っとき」
「え?い、いいわよ!大丈夫よ、歩けるわ」
キョウの指示通りに素早く恋人に肩を貸そうとするジェームズを赤い顔で睨みながらリリーは拒否する。
珍しく照れているリリーを見たシリウスが「鬼の霍乱だな」と呟き、リーマスに「使い方、間違ってるよ」と訂正されていた。
「ええからはよ言うとおりにしぃ。、ハンカチか何か持ってへんか?」
ぐずるリリーにぴしゃりと言って大人しくさせ、キョウは彼女の前に膝をつくと、そっと下駄を脱がせる。
途端痛みに顔を歪めるリリーに「ほれ、言わんこっちゃない」と苦笑して、から受け取ったハンカチを二つに裂いて両の足先に巻いてゆく。
「こんなもんやろ。どや?きついとこ無いか?」
「え、ええ。大丈夫よ……」
「よっし。ほんなら後はジェームズにおぶってもらい」
「よしきた!任せてよ!」
「えぇ!?嫌よ!!」
即答するリリーに少しだけ傷ついたジェームズが腕まくりをしたまま固まる。
しかしキョウはそんな二人に頓着することなく、さっさと裾についた砂を払って立ち上がり、
リリーが履いていた下駄を手に持つと空いた手でと手を繋ぎ、歩き出す。
「さー帰ったら蓮さんに寝酒の用意したらなあかんなぁ」
「お師様にお土産〜」
「あ、りんご飴。それ蓮さんにあげるものだったの?」
「あの人にそんな可愛らしいものなんて似合わねーな。ってか酒に甘いものっていいのか?」
「シリウス、そんなこと言ったらまた酷い目にあうんじゃないの?」
リーマスがの手にあるりんご飴を見つけて、シリウスが恐ろしく素直に感想を漏らし、ピーターが学習しない親友についに呆れて肩を竦める。
置いていかれた二人は、特にリリーはその様子を呆然と眺めていた。
やがてジェームズが苦笑して彼女の前に背を向けてしゃがむ。
「さ、リリー早くおぶさって」
「ジェームズ、でも」
「だって下駄はキョウが持っていっちゃったんだろう?こうするしかリリーは蓮さんの家に帰れないよ」
未だに渋るリリーを説き伏せて、ようやく己の背に乗せてゆっくりと歩き出す。
「あのね、ジェームズ」
大人しく彼の背に身を預けていたリリーが話しかけ、少し歩みを速めて前方の五人に追いつこうとしていたジェームズは「何だい?」と振り返らずに声だけで応える。
途端、鼻腔をくすぐる甘い彼女の香り。
赤い髪がジェームズの首筋に触れる。
リリーはジェームズの首に回していた自分の腕を強く絡めて、彼の後ろ首に顔を埋めるようにして囁く。
「指輪、ありがとう」
それは暗闇で鳴きだした虫の合唱にかき消されそうなほど小さな小さな声であったけれど。
耳に息がかかるほどわずかな距離で聞いたジェームズの耳にはしっかりと届いた。
信じられないほど素直な彼女に柄にも無く顔が熱くなって、思わずいつものように茶化そうとしたのだが上手く言葉が出てこない。
結局「うん」と返事にもならない一言を返しただけで後は黙々と歩き続けた。
「……キョウ」
「あぁ、こらあかんな」
急にぴたりと立ち止まり、二人して左手に流れる川の方向をじっと見つめるとキョウの様子を不思議に思ったシリウスが「どうしたんだよ」と声をかける。
「、ジェームズ達が追いついたら一つに固まっときや」
「うん」
硬い表情でそう言って、亜麻色の髪を懐から取り出した結い紐でしばる。
「どうしたの??」
「リーマス、ジェームズ達は?」
「もうすぐ追いつくけど……」
問われて後ろを振り返ったリーマスが答えると、はすっと手を伸ばしてリーマスの右手と繋ぐ。
「あーっ」
思わず声を上げたシリウスの方を見もしないで、視線はずっと川を見たまま小さくだがはっきりとした声で「手、繋いで。みんなで」と言う。
何が何だかわからない、という風に首を傾げるピーターの手をリーマスがさっと左の手で掴む。
「リーマスおまえ」
「いいから。シリウスも早くピーターと繋いで」
「え?え??リ、リーマス?」
「とキョウが言ってるんだ。僕らには『見エナイ』何かがいるんだろう。言うとおりにしよう」
困惑するピーターには安心させるようにちょっとだけ微笑んでみせ、シリウスには真剣に強張った声で訴えるリーマスに、シリウスも従いピーターの手を取る。
「え?何、どうしたの」
ようやく追いついたジェームズとリリーにも手を繋ぐように言って、六人は小さな円を作り上げた。
しばらく経ってシリウスは辺りが異様に静まり返っていることに気付く。
先程までうるさいほどだった虫の音が一切聞こえない。
それどころか空にあったはずの丸い大きな月すらもいつのまにか消えている。
空気が重たく、絡みつくように澱んでいるように感じられる。
「迂闊やったなぁ。祭で浮かれとったのがあかんかったわ。こないに近くに来るまで全然気付かへんかった」
川の流れを見据えながら低く構えるキョウをその瞳に映し、が眠たげな瞼をゆっくりと上げていく。
「ど、どうしたの?何かいるの?」
不安げにとキョウを見比べるリリーの手をジェームズが握り締める。
緊張した面持ちでキョウの背中を見つめていたリーマスがふいに声を漏らす。
「あ……」
その瞬間爆発したように膨れ上がる禍々しい気配にイギリスから来た魔法使いの少年四人と少女一人は思わず顔をしかめる。
「な、なにアレ!?」
ピーターが悲鳴を上げる。
彼の視線の先、キョウのさらに向こう側には形こそ不安定であるものの、おどろおどろしい雰囲気を纏った異形の者が不気味に笑みを深めながらこちらを見ている。
かろうじて人の形を取っているその異形の化け物は、己の前に平然と構えて立つキョウの姿を見ると、半月型に唇を歪め、紅い口腔内を見せてにたりと嗤った。
「みつけ……タ……龍、のはなよメ……」
ずるり、と化け物が一歩前進すると、踏みつけられた草花がみるみるうちに萎れ、腐ってゆく。
その様子を間近に見たリリーが喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
「待ちぃ。どこ見とんのや。おまえの相手は俺がすんのやで?」
依然低く構えたままのキョウを化け物は眼球の無い落ち窪んだ眼窩で見る。
「おマえ……知って、いる……あノ忌々し、キ魔女に使役…されル……同族ノ死にゾコ無い……」
「………」
嗤う化け物を焦げ茶の瞳が冷たく射る。
「裏切リ者ハ……消す…」
かたかたと震える顎で言ったかと思えば、化け物は驚くほど素早く地を蹴って、キョウとの距離を一気に縮めた。
急いで横に飛び退るが、一瞬遅く、化け物が延ばした腕に触れてしまった。
じんとした痛みがその箇所をかけめぐり、見れば皮膚が火傷を負ったときのように爛れている。
「厄介やな」
小さく呟いて、キョウは浴衣の袖を引きちぎると負傷した部分にきつく巻きつける。
その様子をすぐそばで見ていたシリウスが繋いだ手を離して飛び出そうとするが、リーマスが鋭く彼の名を呼んで引き留める。
「リーマス!何で止めるんだよ!?」
「落ち着いてよシリウス。杖ももっていない僕らに何が出来るっていうのさ」
「だけどこのままじゃキョウが」
言って化け物の攻撃をかわし続けるキョウを振り返る。
かわしてはいるものの、時折防ぎきれずに傷つけられた腕や足に血が滲んでいる。
そんな彼の姿を見てシリウスは歯痒さに唇を噛みしめる。
目の前の出来事に卒倒しそうなピーターや、涙目で悲鳴をこらえるリリー。
あっという間に楽しかった祭の余韻が消え果たその場にの声が響く。
「平気。キョウなら大丈夫」
いつものように間延びしたものではなく、凛としたその様子にジェームズはそっと隣の少女を見下ろす。
「キョウは強いもん。だから平気。それより手を離さないで」
常より低い声で。
双眸に強い光を宿して。
いつか蓮の店で二人のときにも彼女はこんな風に変貌を遂げていた。
「あれは、何?」
声が震えるのは化け物をみたからなのか、それとも左の手を繋いだ先の少女に畏怖の念を抱いてしまったからなのか。
問うジェームズに小さく返る声。
『怨敵』
しかしそれは彼女の故郷の国の言葉で。
音しか拾えなかったジェームズに意味を理解することは出来なかった。
彼女の漆黒の双眸が静かに見つめる先で、ようやく反撃の糸口を掴んだキョウが鋭く何かの呪文のような言葉を叫んで、化け物は消滅した。
身体が粒子に戻るその寸前に「とびラ…開ク……かぎ、そこにあル……」と嗤っていたのが妙に気にかかる。
確かにあの化け物はこちらを、ジェームズとリリーを見ていた。
化け物が完全に消滅すると、また耳に虫の声が聞こえ、空には月が戻っていた。
手を離して兄弟子の下へ向かうをジェームズは目で追う。
泣きじゃくるリリーを慰めながら、そして彼は唐突に理解した。
『扉』と『鍵』が指し示すモノが何であるかを。
「少しお話してもいいですか」
縁側で月を仰ぎながら一献やっている蓮の元へ静かに歩み寄った眼鏡の少年に彼女は艶のある笑みをみせながら了承の意を示す。
蓮の側近くに腰を下ろし、同じように中天に浮かぶ望月を見上げながらジェームズはぽつり、と呟いた。
「わかっちゃいましたよ。僕がなぜここに呼ばれたのかが」
蓮が手酌で酒を注ぐのを横目で見ながら続ける。
「扉も、鍵も、何であるか。僕は知ってしまった」
「あら、やぁねぇ。首席と聞いていたから頭でっかちなだけのお馬鹿さんかと思っていたのに。意外と頭の切れる子だったのね。ジェームズ・ポッター君」
ころころと笑いながら蓮は酒を飲み干す。
「あはは。ホグワーツの人達みんなが言いますよ。馬鹿と天才は紙一重だって」
「うふふ。昔の人の格言も馬鹿にしたもんじゃないでしょう」
「そうですね」
ひとしきり二人で静かに笑った後、「それで?」と蓮はジェームズに菫色の瞳を向ける。
「ジェームズはあたしに何を訊きたいのかしら」
「訊けば答えてくれますか」
真剣な色を帯びる眼鏡の奥の両の瞳。
蓮は肘掛に頬杖をつくと、ゆったりと凭れながら答える。
「うーん、気分によるかしら。アナタは頭がいいから下手なことは言えないし」
「褒めていただいてありがとうございます」
「もうちょっと早くあたしと会っていたら、アナタもここに居られたのにねぇ」
左手に持つ猪口に注いだ酒に月を映しながら蓮はため息をつく。
ジェームズはそれに少し笑った。
「そうですね。でもそれじゃ僕はリリーに出逢えなかった。だから今のままでいいんですよ」
「ご立派な心がけだわ。ブラック家の坊やとは雲泥の差ね」
目を細めて言えばジェームズはまた微笑う。
両足を沓脱石に投げ出して、白く輝く月を仰ぎ見る。
「シリウスはまっすぐなんですよ。僕みたいに歪んだところなんて少しも無い。彼はいつでも己に誠実であろうとしている」
親友をお世辞ではなく本気でそう褒め称えるジェームズを見る眸をそっと伏せて、蓮は猪口を傍らの盆に置く。
ことり、と普段なら聞き逃してしまいそうな小さな音がやけに響いた。
「つくづく惜しいわねぇ。アナタみたいな子、嫌いじゃないわ」
そう言って、嫣然と微笑む。
珊瑚のような爪がついた白い指先をつい、とジェームズの額に伸ばす。
「でもね、今日のことは忘れてちょうだい」
まだ少年の面影を濃く残す榛色の瞳が驚愕に見開かれる先で、蓮は静かに呟いた。
「アナタではないの。まだ、時間が足りないのよ」
その場に崩れるジェームズの身体をそっと横たえて、だらりと下がった左手の薬指にある指輪を見つける。
それがから贈られたものだと一目で理解した蓮は再び空を見上げる。
「そう、では鍵も扉もあとは開くだけなのね……」
寂しそうに発せられた言葉は誰に聞かれることもなく夜空に吸い込まれていった。
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完成日
2005/07/16