湖畔にきらめくしぶきだとか。
明るい日差しをやわらげてくれる緑の影だとか。
世界があたたかく美しいことを教えてくれた。
彼と彼女の恋愛事情2
リーマスがと初めてまともに会話をしたのはホグワーツに入って四年目であった。
親友であり、偉大なる我らが悪戯仕掛人の創設者として、またはグリフィンドール寮のクィデッチチームの無敵のシーカーとして、そして一番信憑性が薄いが紛れもない事実である学年首席として。
様々な肩書きを持つジェームズ・ポッターが一人の少女に執心しはじめたことから全ては動き出した。
ジェームズが場所も時間も問わず追い掛け回す少女の隣にいつもいる黒髪の、小柄な異国の少女。
自分達とは違った質の白い肌に、癖のないまっすぐな黒髪。
アジアンな顔つきはどこかエキゾチックで。
容姿に惹かれたのかと言われれば、第一印象は、と応えるだろう。
その頃の彼女はいつもぼやっとしていて、ジェームズをあしらうリリーの傍らで何をするでもなくふらふらと立っていた。
ただ、それだけ。
同じ寮の同じ学年の少女である。
それだけの存在だった。
満月の後は全身を疲労感が襲う。
人狼としての本性を曝け出すということは自分のヒトとしての全てを奪われるということ。
体中を駆け巡る化け物としての本能に際限なく苛まれる己の理性がひしめき合って。
言いようのない苦しみが身体も、心も蝕んでいく。
だけどひとりで耐えるしかない。
誰かに傍にいて欲しくても、きっとその人を傷つけて、殺してしまうだろうから。
翌朝のリーマスは疲弊しきっていた。
朝食も満足に取れず、ましてや授業になど行けるはずもない。
心配してくれるジェームズやシリウスにかろうじて笑みを浮かべながら授業を欠席する旨を伝え、自室に帰って休もうと覚束ない足取りで歩き出す。
校舎の入り口、玄関ホールにようやく辿り着き、これから上らなければならない階段を見上げて重いため息を吐く。
手すりに寄りかかって、誰かが閉め忘れた大きな扉の向こうの溢れんばかりに零れる陽の光を眩しく眺めた。
この向こうには行けない。
いつからか、境界線を引いていた。
自分の中で。
他人との距離を置くことは、彼らを守ることであり、そして自分を守ることでもあった。
すべてに降り注ぐ明るい陽光の元では生きてはいけない、と。
悟ったのはこの学校に入るずいぶんと前からだった。
蔑まれ、疎まれ、冷ややかに研ぎ澄まされた視線で見られる家族をずっと見ていたのだ。
気付かないわけがない。
幼さなど免罪符にもならない。
自分は人ではないのだから、あたたかな太陽の下で笑うことなどしてはいけない。
それでも暗闇に慣れない。
「未練がましいかな、僕は」
自嘲気味に呟いて階段に片足をかけた時だった。
「……………――――」
かすかに聞こえる旋律。
空耳かと思い思わず顔を上げ、辺りを見回す。
城内を飛び回るゴーストの紳士や絵の中の貴婦人の会話が聞こえるが、音楽ではない。
だけど確かに聞こえた声。
耳をすましてみれば聞こえるだろうか。
そう思い目を閉じ、耳に全神経を集中させる。
「………――」
また、届いた。
ゆっくりと光を目に感じながらその声が外から風に乗って運ばれてくるのだと気付いた。
どうしよう、と悩む間もなく足は外へ向かって歩きだしていた。
湖のほとりを通り過ぎ、随分と遠くまでやってきた。
痛む足を引きずりながら、時折聞こえる声に耳をすませて方向を確めながら。
やってきたのは大きな木の根元だった。
大地にしっかりと根を下ろすたくましい木の元で、幹に背を預けるようにして座り、木漏れ日を存分に浴びながら歌う少女。
心地良く耳朶に響く歌声は決して大きくなく、よく玄関ホールにいた自分にまで届いたものだ、と半ば驚きながら今度ははっきりと聞くことができる歌に耳を傾ける。
残念ながら歌詞はリーマスの知る言語では無かったため、意味を理解することは出来なかったがそれでも近くで聞けただけで十分だった。
ゆるやかな旋律はまるで子守唄のように優しい。
木陰に身を潜めて聞いていたリーマスだったが、ふいに歌が途切れたことを訝しんで顔を上げると、目の前に先程まで少し離れた木の根元で歌っていた少女がいた。
「うわっ」
鼻先僅か十センチ。
それほど近づかれるまで気付かなかったのはやはり体力が落ちて注意力が低下していたからだろうか。
情けない悲鳴を上げてしりもちをついてしまったリーマスを、目の前の少女は首をかしげて大きな瞳で見ている。
黒髪に漆黒の瞳。
その顔に見覚えがあったから思わず尋ねる。
「君……?・?」
訊かれた少女は大きな瞳を瞬かせてこっくり、と頷いた。
「何、してるの?」
先程歌を紡いでいた優しい声音がリーマスに問う。
問われたリーマスは困ったように視線を泳がせた。
まさか歌を聞いてここまでやってきた、あまつさえ気付かれないように聞いていたのに本人に見つかってしまったなどと言えるわけもない。
応えに窮するリーマスを不思議そうに眺めていたは彼の袖から覗く腕に爪で引っかいたような痕があるのを見つける。
「怪我……」
ぽつり、と呟かれた言葉にはっとして、慌てて袖を伸ばして傷跡を隠す。
何でもないから、と笑おうとしたが白い指先が伸びてきたのでリーマスの意識は凍りつく。
「だ、駄目だよ!」
その手が触れる寸前に慌てて身を引いて彼女の手を遠ざける。
だがは手を伸ばしたままの格好でまたもや首をかしげている。
「どうして?」
「どうしても!君は僕に触っちゃいけないよ」
「触っちゃいけない?」
「そう、だよ……!僕なんかに触ったら」
触ったら。
この浅ましい化け物の躰に触れてしまったら、あの澄んだ優しい歌まで穢れてしまうような気がして。
汚れるのは自分一人でいい。
あんなにも光に満ち溢れた世界で、あんなにも優しい歌を紡げる彼女に。
憎しみや怨嗟で塗り固められた境界のこちら側など似合わない。
そう思って、知らず昂ぶる感情、こみ上げる涙。
熱い頬に流れる涙に。
だけど彼女は手を伸ばす。
臆することなく、まっすぐにリーマスの頬に触れる。
やわらかな指先で熱い雫をぬぐって、ゆっくりと額を寄せた。
二人共、青臭い夏草の上に座ったままなのでそう身長差はない。
こつん、と小さな頭がリーマスの額に寄せられ、その僅かな衝撃で彼女の細い肩から黒髪がさらりと落ちる。
そんな光景にすら見惚れて。
言葉を失うリーマスには微笑んで、告げる。
「大丈夫だよ」
一瞬、何を言われたのか分からなくて。
離れることすら忘れて軽く目を見開くリーマスには尚も微笑う。
「大丈夫だよ。アナタは全然汚れてなんかいないよ。触っても、平気だよ」
小さな手がリーマスの頬を包む。
ね、と小さく、優しく、泣いている幼子をあやすように言う彼女があまりにもあたたかくて。
今度こそ堪えきれずに溢れる涙、喉の奥からせり上がってくる嗚咽。
泣き出すリーマスを、はいつまでも「大丈夫、大丈夫」と何度も繰り返し背を叩いてやっていた。
誰かの体温が泣けるほどにあたたかいことを教えてくれたのはだった。
「何思い出し笑いしてんだよ」
「あれ、顔に出てた?」
まるで昨日のことのように鮮明に思い出すことの出来る記憶の断片に思いを馳せていると、隣に座っていたシリウスが訝しげにこちらを見ていた。
ゆるんでいた表情を手で確めていると、「思い出し笑いする人ってむっつりスケベだって言うよねー」と向かいからジェームズが言ってきたので
テーブルの下の彼の足を思いっきり踏みながら「そうかもね」とにっこり返しておいた。
「何考えてた?」
シリウスが紅茶を淹れ直しながら聞く。
答える。
「恋を知った瞬間」
だと。
言った瞬間シリウスが軽く紅茶を噴出し、驚いたようにリーマスを見つめたが。
すぐに相好を崩して笑った。
「そっか」
と短く言って。
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完成日
2005/08/05