夕焼けは紅く、朱に染まる。
まるで全てを呑み込むかのような凄惨な彩。
猫と夕焼け 後編
次の日から何事もないように振舞った。
昨日投げつけられた言葉も、彼女を拒んだことも何もかも無かったことにした。
は何も言わなかった。
ただ、少しだけ泣きそうな顔をしていたように思う。
その事にも気付かないフリをした。
そうでなければ己を保てなかった。
自分の弱さを認めるのが怖くて、隠したくて、全てを押し込めて蓋をした。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
頬に光を感じてリドルは長い間俯いていた顔をようやく上げた。
いつの間にか雨は止んでいて、窓ガラスについた水滴が夕日になる寸前の金色の光にきらきらと眩しく反射していた。
のろのろと身を起こし、部屋に入ったきりほったらかしにしていた鞄を拾い上げて机の上に置く。
濡れた身体のままでいたから、すっかり冷えてしまった。
木々はすっかり色づいた葉を落としてしまっている。
もう秋は終わり、冬になるというのにこんな風に身体を冷やしたらきっと風邪を引いてしまうだろう。
今更だとは思いながらタオルを取り出して髪を拭く。
「風邪を引いていなければいいけど……」
思わず呟いてしまって苦笑する。
こんな時でも彼女の身を案じてしまっている。
壊してしまいたいほどの衝動を持ちながら、けれどいなくなってしまうことを恐れる愚かな自分、その矛盾がもどかしい。
壁の高い場所に切り取られた窓から入る金色の光が部屋の埃をプリズムのように煌めかせている。
深く息をついて、リドルは部屋を出る。
謝らなくてはいけない。
彼女はきっと哀しい顔をしたままだ。
「は?見なかった?」
スリザリンの談話室では大きな暖炉に巨大な炎が轟々と燃えていて、リドルの冷え切っていた身体を指先から暖める。
寮へ続く階段に一番近い場所に座っていた少女、ユーディールに尋ねると、彼女は赤みがかった金色の巻き毛を揺らして考え込むように首をかしげる。
「見てないわ。そういえば授業が終わってから一度もここへは戻っていないんじゃないかしら」
「戻っていない?確かなのか?」
「わたし、ずっとここにいたもの。絶対よ」
今度は自分の記憶をはっきりと思い出したのか、確信を込めて頷く彼女に上の空に近い礼を言ってリドルは足早に談話室を横切った。
何処にいるのかなんてすぐに分かる。
少し赤みを帯びた空と雲を映した雨上がりの水溜りの中を構わずに突き進む。
数時間前に辿った道をそのままなぞって、薬草学で時たま使用するビニールハウスの陰を曲がり、そうして裏庭へ出ればやはりはいた。
思った通りに彼女がそこに居てくれて安堵したリドルは大きく呼吸を繰り返す。
「」
名を呼ぶが、しかし彼女は振り返らない。
リドルの紅い両の瞳に映るのは黒髪が零れ落ちる細い肩だけだ。
夕暮れにそれはあまりにも映えていて、日が沈めば一緒に闇にとけて消えてしまいそうだ。
そうだ。
だから僕は彼女を傷つけてしまいたいんだ。
唐突に頭を駆け巡るコタエ。
傷つけて、そうしてその存在を確かめたかった。
綺麗なものは嘘くさくて信じられないから、魔に魅入られやすいと言われるから、汚すことで守りたかったのだ。
壊してしまえば誰も彼女を見ないと思ったから。
それはあまりにも自分勝手な理論だった。
泣きたくなるほど子供じみた独占欲だった。
俯いて、自分を恥じる。
両の瞳から雫となって零れ落ちそうな自尊心を懸命にこらえて押しとどめる。
真っ直ぐに立つ目の前の少女を今は見ることはできないと、そう思った。
なのに。
「リドル」
自分を呼ぶ声がする。
甘く涼やかで、鈴が転がるような声で呼ばれると、疎ましいとしか思えなかった父親のモノだったこの名も世界を虹に変える力を持つ。
柔らかなその声だが逆らい切れない強さをも持ち合わせている為、リドルは一瞬躊躇したが、ゆっくりと顔を上げる。
夕焼けがとても綺麗だった。
緋く燃える太陽は全てを容赦なく黄昏に向けて染め上げてしまう。
昔は夕焼けが怖かった。
何もかも呑み込んでしまいそうで、けれどどうしてだか自分は一人、残っているような気がしていた。
家路を急ぐ様々な人を孤児院にいた頃に窓の内側から眺めていた。
家々から立ちのぼる夕飯のにおいや、それに気付いて遊ぶのをやめて友達と手を振り別れる子供が嫌いだった。
羨ましくて、妬ましくて、壊してしまいたかった。
自分を呼びに来てくれる人は誰一人としていなかったから。
だから、全部消し去ってしまいたいと思った。
なのに……どうして。
「どうして泣いていらっしゃるのですか」
彼女の声がする。
だけど彼女は見えない。
気付けば視界は歪み、冷たい雫が頬を滑り落ちていた。
空気が動くのを感じ、次に冷たくなった頬をあたたかくやわらかな手が包み込んだ。
その優しさが余計に視界を不鮮明にさせる。
「分からないよ……」
喉の奥から絞り出した声は驚くほど弱々しく、彼女の耳に届いたのかさえ判らない。
「を傷つけたくないんだ。それなのに僕は君を壊してしまいたくなる。
誰よりも君を守りたいはずなのに、どうしていいのか分からないほど僕は……君を」
吐き出した言葉は情けないほど陳腐なもので、学年主席の頭脳はこんな時には悔しいほどに冴えない。
「リドル」と、もう一度呼ばれて頬を包む手に力が込められ、に視線を合わるように首を動かされる。
「わたくしは傷ついて簡単に壊れてしまうほど弱くも脆くもありません」
毅然とした黒曜の瞳が強い光を持ってリドルを射抜くように見つめる。
「貴方に傷つけられたからといって、離れようとは思いません」
だって、貴方はわたくしを連れて行ってくれると約束して下さいました。
しっとりと濡れた黒髪を揺らして彼女は優しげに淡く微笑む。
そんな彼女をぼやけたフィルター越しに見ていた。
「ああ、そうだったね。約束した。君を連れて行くと」
そう遠くない過去に交わした他愛の無い約束を思い出して、すっかり冷え切った彼女を強く抱きしめる。
「壊れませんでしょう?」
苦しいほどに強く抱きしめているとが微笑った。
「命は強く出来ているものなのですわよ。少しぐらい傷ついても生きていけるのです」
彼女がそう言った時、「にゃ〜」という小さな鳴き声と共に足元に柔らかくあたたかな熱がまとわりついた。
見下ろすと、灰色の縞を背に持った白い子猫が金色の瞳で見上げていた。
あどけないその表情に心を溶かされたような気がして、リドルは小さく呟く。
「そうか。おまえは弱くなかったんだな」
不思議そうに見上げるの額に唇を寄せてあたたかさを感じながら安心したように微笑んだ。
西の空が朱から紺に変わっているのが見えた。
もうすぐ、星が見える。
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完成日
2005/01/21