いとしい、という言葉だけでは伝えきれない。
秘め事
恋をしていると自覚するのはいつもこんな時だ。
想う相手に触れている、ただそれだけで全てが満たされてしまいそうなほどの充足感を得られる。
その一方、少しでも離れてしまったら途端に襲い来る不安と言いようのない焦り。
「おやすみ」と言って自室に引き上げる、背を向けるその一瞬に振り返って抱き締めてしまいたくなる。
何度そんな自分を抑えてきたか。
自室の褥の中でいつも早く夜が明けることを願っていた。
「おはよう」と微笑みながら言い合うその瞬間をどれだけ心待ちにしていたか。
「知らないんだろうな」
独り言のつもりでぽつりと呟いた声は彼女へ届いたようだ。
机に向かって書き物をしていたは振り返りながら「何がですの?」とやわらかく微笑む。
右手にペンを持って、長い髪をさらりと揺らして黒い瞳を彼女のベッドに上半身だけを預けて寝転がるリドルへ向ける。
リドルは反動をつけて起き上がると、大股で椅子に座る彼女に近付き背後から抱きすくめる。
肩口に顔を埋めるようにして、自分と同じ色を持つ、だけど全く質の違う黒髪から香る彼女を鼻腔の奥に吸い込む。
「くすぐったいですわ」
首筋にリドルを感じてくすくすと笑うに満足して、彼はさらにきつく彼女を抱き締める。
「リドル、そんなに抱き締められてしまったら手紙が書けませんわ」
「いいよ、書かなくて」
子供の様に我侭を言うリドルにはますます笑い声を明るくする。
「駄目ですわ。これはわたくしの大事なお友達へのお手紙なんですもの」
そう言って、肩と腰に回された腕をさりげなく緩める。
「大事なお友達?」
二人の身体に隙間が出来てしまったことが不満なのか、ほんの少し不機嫌そうな顔をしたリドルがその時初めての手元を覗き込む。
薄い黄色の表面がざらついた紙に柳のようにしなやかで美しい文字がならんでいる。
だが当然それは彼女の母国語である日本語で書かれているため、リドルには読むことが出来ない。
記号のようにしか見えないそれをしばらく眺めて、斜め右下にあるの顔を見下ろす。
「誰に?」
「ずっと昔からお世話になっている方なのです。真冬の月のように綺麗な銀髪と菫色の目をしたとても綺麗な方なんですのよ」
にっこりと自分のことのように誇らしげに話すを見て、リドルの中に不安が渦巻く。
「男?」
聞きながらの髪にくちづけを落とす。
態度とは裏腹に心には本当に余裕がない。
しかしそれを悟られぬように、何故なら彼女はとても聡いから。
けれどそれは無駄な努力に終わったらしい。
「まぁ」と一度大きく目を見張ってみせた後、彼女は笑いを堪えきれずに肩を震わせる。
面白くなくてもう一度強く腕を回して、首筋に噛み付くようにキスをする。
「蓮は女の方ですわよ。わたくしなど足元にも及ばないくらいにとても美しい方。
世の殿方はみんな彼女のような方に心を奪われてしまうのでしょうね」
首にリドルの熱を感じた瞬間にびくり、と全身を強張らせたが答える。
彼女の芸術作品のように白く細い首筋に所有の印を刻んで満足そうに息を吐いたリドルはその言葉にほっと全身の力を抜く。
「僕にはだけだよ。他には何もいらない」
熱い吐息と共に囁いて、やわらかな耳を甘く噛む。
くすぐったいのか、身をよじらせるをしっかりとホールドして逃さないようにする。
室内に揺れる二つの影がどんどん重なり、一つに近付いていく。
「故郷の、日本の知り合いか」
「ええ。でも蓮はこちらでも高名な魔女ですからきっとリドルも知っていますわよ」
「僕も?レン……ちょっと聞いたことないな」
少し考えて首を左右に振るリドルを見上げて、は悪戯っぽく瞳をきらめかせる。
「“時守の魔女”を御存知ですか?」
「トキモリの…………っ!」
自分の言った言葉をなぞるように呟いたリドルの瞳が驚きに染められるのをは面白そうに眺めていた。
「その魔女は有名なんてものじゃないぞ!?時守の魔女と言ったらイギリスどころか世界中に名を馳せている魔法界の重鎮じゃないか!」
風の噂に聞いたことがある。
東の果てに住むという、時を自在に操る魔女の話を。
時守の魔女はその二つ名の有名さに隠れてしまい、本人の情報には信憑性のあるものが少ない。
リドルのように名前を聞いただけでは分からないというのが常人の反応だ。
「そんなすごい魔女と知り合いだったのか。まったく、には秘密が多すぎるよ。いつも驚かされる」
彼女から離れて机に背を向けてもたれ、リドルは掌に顔を埋めて深く息をつく。
は気にせずにペンを再び手に取り、手紙の続きを書き始める。
「女の心は深い海のようなものですわ。わたくしの心にはたくさんの秘密が沈められているのです」
「そして男は秘密という財宝を探す海に彷徨う一介の船乗り、というわけか。冒険者は柄じゃないんだけどな」
ぼやくリドルには微笑みながら相槌を打つ。
「そうですわね。リドルに肉体派のイメージは全く結びつきませんわね」
相変わらず笑顔で暴言を吐く。
天然な彼女の毒舌ぶりにリドルは再度ため息をつく。
手紙を書くために少しうつむいた横顔を見つめる。
日本人というのは概して皆、姿勢がいいものなのだろうか。
いつでもその背はまっすぐに伸ばされて、遠くにある未来を見据えている。
迷いなど何もないような彼女の強い意志を秘めた目を見るのが好きだ。
だが同時に置いていかれるのではないかという心配も浮かび上がるのだ。
いつか、自分を置いて何処か手の届かないくらいに遠い場所にが行ってしまう気がして。
だから少しでも彼女に触れていないと不安で仕方がない。
今もそうだ。
部屋の明かりに照らされた彼女の横顔を見つめながら、昼間アレンに言われた言葉をなんとなく思い出す。
大事なものを覚えておけと彼は言った。
言われた瞬間は何を馬鹿なことを、と思った。
リドルにとって大切なものというのは後にも先にもだけだ。
そんな単純なことを見失うことなどあるわけがない。
「リドル?」
しばし自分の考えに耽っていたリドルを愛しい彼女の声が呼び戻す。
手紙を書き終えたのか、丁寧に折り、きちんと封筒にしまってからはリドルに手を伸ばす。
その頼りないほどに小さな手が頬に触れる前にリドルはを横から抱きしめる。
「どうしたのですか」
腕の中で不思議そうに首をかしげる彼女を物も言わずにただ強く閉じ込める。
は無言のリドルを黙って受け入れる。
そっと両腕を彼の背にまわすと、抱きしめる腕が更に強まった。
「大丈夫ですわ」
幼子をあやすように、優しく耳朶に響く心地よい声。
とんとん、と一定のリズムを保って背をたたかれる。
「わたくしはここにいますから」
「ずっと、だ。約束したんだから君には守る義務がある」
言葉だけでは伝えきれない。
溢れ続ける感情を愛と呼ぶのなら、身を切るような切なさもすべて飲み込んで。
「………はい、リドル」
返事ごとくちびるを奪う。
触れ合うだけの其れで満たされるほど、昔は単純ではなかった気がするのに。
きっと彼女はこんな自分の些細な変化など知らないのだろう。
いくら彼女が聡明であってもこればかりは、無理というものだ。
なにしろ当事者である自分ですらその変化に気づいたのがつい最近だったのだから。
長い睫毛を伏せてくちづけに応える彼女の首筋に先ほどつけた紅い華を見つけ、リドルはようやく安堵の息をついた。
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完成日
2005/03/26