おとぎ話の主人公のように、幸せな結末だけを選び取れたなら。
御伽噺の例え話
部屋の明かりは落とされて、目が慣れるまでは何があるのかさえ判らないほどだった。
だが暗闇に徐々に夜目がきくようになると、普段から良く知った部屋だ。
別に暗いからといって困るほどのものでもない。
第一、部屋にいる二人は同じベッドの中、毛布とシーツにくるまれているのだから何処に何があろうと関係ない。
絡めた指先から伝わる相手の体温だけで充分に存在を確かめられるのだから。
にゃぁ、と部屋の隅でいつも聞こえてくるはずの猫の声すら聞こえてこない。
リドルが追い出したからだ。
「かわいそうに、とらはきっと今頃寂しくて鳴いているやもしれませんわ」
きゅっと眉根を寄せて、少しだけ恨みがましい視線を至近距離で送るに構わず、リドルは絡めた指先を強く引き、自身の腕の中に彼女を引き寄せる。
白くやわらかな毛並みの、背に灰色の縞を背負う子猫を思い出しているのか、自分を見ないに不満を覚えたリドルがむっとして空いている方の手でその細い顎を捉えると、無理やり自分の方を向けさせる。
「ユーディールとアレンが可愛がってるから大丈夫だよ」
素っ気無くそう言って、そのままキスを。
ついこの間拾ったばかりの子猫を飼うことに難色を示したリドルは未だにその存在が気に喰わないらしく、と共に夜を明かす時はいつも同室であるユーディールに押し付けるようにして世話を頼んでいる。
ユーディールは今頃アレンの部屋で『とら』と戯れているのだろう。
とユーディールは同室で、どういう因果か、リドルとアレンもルームメイトだったりする。
そこで週末はお互い恋人同士で過ごす為にリドルは達の部屋へ、ユーディールがリドルとアレンの部屋へ行くこととなったのだ。
その際ユーディールにはとらを連れていってもらう。
二人の時間に邪魔が入るのが大いに気に入らないというリドルの我儘だ。
それでなくとも四六時中の膝で甘える子猫に嫉妬を隠せないというのに、唯一独占できる一夜までもあの可愛らしくも小憎らしい声で遮られてしまうなんて堪ったものじゃない。
毎週苦笑しながらとらを胸に抱いて部屋を出て行くユーディールには申し訳なさでいっぱいだった。
彼らだって『二人きり』の時間が過ごしたいだろうに。
「リドルは少し自分勝手過ぎます」
塞がれた口を開放されて、空気を吸い込んでからは近くにある紅い双眸を嗜めるように睨む。
「いいんだよ。にだけは何処までも我儘でいようって決めたんだから」
「またそういう事を勝手にお決めになって……本当にどうしようもない方ですわね」
「その、どうしようもない奴に抱かれているのは君だろう?」
裸の肩につい、と指を滑らせて、肌理の細かい感触を楽しむ。
吸い付くような、滑らかな白い肌には一点の曇りもなく、白磁器のように透きとおっている。
鎖骨の辺りに残る色事の名残にリドルは目を細めて喜ぶ。
噛み付く度に甘く声を上げる少女を愛おしく撫ぜた跡に出来たこの華は、この世のどんな花より美しいと彼は思う。
自分に足りない何かを補うように互いを求め合い、そうして眠るまでのまどろみの中、話をするのがとリドルの習慣だった。
触れる体温は赤ん坊の揺り籠の如くあたたかく、泣きたくなるほど安心する。
ぽつり、ぽつりと色々な話をする。
それは校庭の木々の落葉の様子だったり、宇宙を構成する理屈だったりと実に様々だ。
今宵、話の切欠を作ったのはだった。
「龍の花嫁の話をしましょうか」
手遊びに自身の長い髪を梳いているリドルの腕の中、彼女は穏やかに口を開いた。
「おとぎ話かい?」
「ええ。わたくしが小さい頃におじい様に教わった昔話です」
「ふぅん、日本の龍は神様なんだよね。こっちじゃドラゴンは話の中じゃ悪者扱いだったり、果ては僕ら人間に飼われてたりするけど」
興味が湧いたのか、関心を寄せるリドルに「では」と声を改めて話し出す。
「昔々、まだ人と神と物の怪が同じ地に暮らしていた頃のお話です。龍の神様が空をお散歩なさっていると、美しい歌声が耳に届きました」
微笑みながら話す様子は小さな子供を寝かしつける母親の様に似ている。
そんな彼女の髪を指先で遊ばせながらリドルは黙って話に耳を傾ける。
「歌に惹かれた龍の神様は雲の下へおりて歌声の持ち主を探しました。すると丘の上、桃色の花の下で一人、歌を唄う姫を見つけました。
龍の神様はしばらくその姫の歌に耳を傾けていました。やがて姫が歌い終わって帰ろうとすると、龍の神様は人の姿になって姫の前に現れました」
姫の前に現れたのは、月の輝きを持つ銀色の髪に太陽の光のようにあたたかい金色の瞳を持った美しい少年だった。
被いた布の下から覗いた人間離れした美貌に姫は驚き、小さく息を呑む。
「驚かせてすまない」
と、龍神は姫に謝る。
「あなたの歌がとても綺麗だったから。どうしても話してみたくなった」
申し訳なさそうにそう言う龍神に姫は微笑む。
「お褒めいただきありがとうございます」
「わたしはあなたの歌がとても気に入った」
素晴らしい歌声の礼に何かあなたに差し上げたい、と龍神は姫に言う。
姫はしばらく考え込むと、やがてはにかむように笑ってこう答えた。
「では“約束”をわたしにください。明日もあなたがわたしの歌を聞いてくださいますように」
欲のない姫の答えに龍神は大層喜び、明くる日も同じ場所へ歌を聞きにやってきた。
桃色の花は今が盛りとばかりに咲き誇り、満開の花の下で美しい調べを紡ぐ姫の声は丘の上から見渡せる人の住む領域にすべて広がっていった。
歌を聞き終えた龍神が姫に言う。
「今日の歌も素晴らしかった。このような歌声を聞かせてくれるあなたに何か差し上げたい」
姫は又も笑って答える。
「ではまた今日も“約束”を。明日もあなたがここに来てくださいますように」
こうして約束は次の日も、その次の日も姫に渡された。
そうして桃色の花が散り始める頃、歌を聞き終えた龍神が姫に“約束”を授けて天に帰ろうとすると、姫はその着物の袂を遠慮がちに掴んだ。
龍神が金色の瞳を丸くして姫にどうしたのかと尋ねると、姫は俯いて明日で歌うのは最後だという。
龍神は驚いて姫の細い肩を掴んでどうしてかと訊ねる。
だけど姫は答えられず、ただ首を左右に振って「どうしても」とか細く告げるのみだった。
龍神は辛抱強く姫に訳を聞くが、姫は答えず、とうとう泣き出してしまった。
いつしか夕陽がその場を照らし、桃色の花が緋色に染まり、龍神の髪も眸も朱に変じた。
姫が泣き止むのを待ってから龍神は仕方なく“約束”を残して空へ戻る。
次の日、最後だという姫の歌はいつにも増して伸びやかで、艶のある旋律は舞い散る花の散華の瞬間にまで彩を添えた。
歌い終えた姫がその顔を上げて龍神を見上げる。
龍神は言う。
「あなたの歌がどうしてもう聞けないのか、わたしはとても残念だ」
そうして龍神は手を伸ばす。
「わたしはあなたを空へ連れていこうと思う。姫君、どうかいつまでもわたしの元でその歌を聞かせていて欲しい」
龍神のその言葉に姫はたいそう驚いた。
「それで?お姫様は龍と一緒に行ったの?」
クライマックスを一息に話したは深呼吸をひとつすると、物語の結末を待ちわびるリドルに頷く。
「えぇ。姫は龍の神様の手を取って、二人は一緒に天へ昇っていったそうです。龍の花嫁となった姫はその後自分の家族をいつまでも空から見守っていました。
そうして今でも夏になると、わたくしの故郷では龍の花嫁を送り出すために歌を唄って龍の神様をお迎えするお祭りがあるのですよ」
ふぅん、と小さく返事をしてリドルは話を振り返る。
「でもそのお姫様も大胆だよね。自分の家族や友達を捨てて人間じゃない奴の処へ嫁ぐなんてさ」
彼の胸に顔をうずめていたはその感想に反論するために顔を上げる。
「あらそうでしょうか?姫は愛する者と結ばれたのですよ。彼女にとってこれ以上の幸福はなかったと思いますわ」
「愛する者?」
「姫は空を自由に飛ぶ龍にずっと前から恋焦がれていたのです。だから龍の神様の気を惹く為に空に近い丘の上で歌を唄ったのですから」
「じゃあすべてお姫様の思惑通りってこと?女って怖いな」
「まぁ」
肩をすくめるリドルには少し怒った風に目を瞠る。
しかしすぐに二人共目を合わせてくすくすと笑い出した。
「さぁ、お話はもう御仕舞いですわ」
窓の外の月が傾きかけてしまっていることに気付いたがそう言って毛布を肩まで引き上げる。
いつの間にか夜は更けていた。
随分と長い間話に夢中になっていたらしい。
二人して同じ布団にくるまりながら互いを暖めあう。
「ねぇ、さっきの話。例えば僕が龍なら君は僕の手を取るかい?」
人肌が心地良く、とろとろと眠い空気の中掠れた声でリドルが問う。
も眠いのかすぐに答えは返ってこなかったが、
「………えぇ。きっと」
やがて聞こえたその返事に満足してリドルは彼女の頭をその腕に抱え込んで眠りについた。
隣に眠る人物の寝息が聞こえると、はゆっくりとその両の瞳をあける。
安心しきって無防備に寝顔を晒す恋しい人の頬の輪郭をそっと撫ぜながら彼女は寂しそうに微笑む。
「物語はいつでも幸せな終わり方しかしないのですから。いつまでも幸せに暮らし続ける主人公のようにはわたくしたちは絶対になれない。だから今ここにある現実がこんなにもいとおしい……」
眠るリドルに小さくキスを贈る。
そうしても眠りに身を任せた。
「おやすみなさい」
と告げて。
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完成日
2005/05/14