その日は空が馬鹿みたいに晴れていて。
眩しいほどに光が白かったことを覚えている。



空の青さ、夢の蒼さ



こつこつと、石造りの廊下に響く靴音に胡乱気にリドルが振り返ると、長い黒髪を僅かな風にさえ揺らす東洋の顔つきの少女がおっとりと微笑みながらこちらを見ていた。
「何?何か用なの」
眉を顰めて無愛想に訊けば、彼女はやはり微笑んで。
「わたくし、日本からやって参りましたと申します」
突然名を名乗った彼女に軽く面食らいながらもリドルは「ふーん」と興味無さ気に呟くのみだった。
「寮監の先生に判らないことがあれば貴方にお聞きするように伺ってます」
そんな彼の様子に構わず、彼女はふんわりふんわり微笑みながら続ける。
その言葉にリドルは腹の内で舌打ちする。
面倒なことを押し付けてくれた、と。
教師の信頼を勝ち取るのに手っ取り早い方法が成績優秀者であることだった。
元々の有能さも相まって、今や首席の地位を不動にしているリドルだったが、それはあくまでも己の計画を邪魔されない為である。
それが逆効果となってしまった今、本当なら声に出して悪態をつきたいところだ。
それでも彼はの首元に締められたネクタイの色を一瞥して確認すると、できるだけ人当たりの良い笑みを浮かべてみせる。
「それは気付かなくてごめん。組み分けの時にはいなかったよね?」
「ええ。こちらへ来る時に通った門で少し時間がずれてしまったようなのです」
「門?東洋の魔法かな、僕には仕組みが想像もつかないけれど」
言いながらリドルは素早く考えを巡らす。
こちらには無い東の魔術。
それをうまくすれば労せずに手に入れることができるかもしれない。
計算高い彼の思考を知ってか知らずか、は育ちの良さそうな温和な笑みでリドルの考えに決着をつけさせる。
「よろしければ簡単にお教えいたしますわ。よろしくお願いしますね、えぇっと……」
口元に指を添えて言いよどむ彼女に、リドルは自分の名前を告げ忘れていたことを思い出す。
仮にも紳士の国であるのだから、これは失礼にあたるだろう。
しかも相手は先に名を名乗っている。
品行方正な首席にはあるまじき行為だ、とリドルは苦笑しながら軽く腰を折る。
「失礼。僕の名はトム・M・リドル。お見知りおきを、東の魔女?」
の手を取り、軽く甲に口付けを。
手を離すときに相手の瞳をまっすぐに射る事も忘れない。
これがリドルの異性の心を掴む常套手段だった。
しかし目の前の黒髪の少女の反応は同じ年頃の少女達のものとは少し違ったようだ。
いつもなら頬を軽く染めて、うっとりと自分を見下ろすはずの瞳がぱちぱちと、軽く瞬きを繰り返している。
白い肌は桃色に染まるどころか、平静を保っているようにすら見える。
やがてようやく口を開いた彼女に、リドルは初めての『一発』を喰らうこととなった。
「リドル、とお呼びしてよろしいかしら?」
「なんなりと」
「ではリドル。こちらの風習がどのようなものであるか、わたくしも事前に少しだけ学習をいたしました。ですが、やはり慣れない事には抵抗があるものです」
ぐ、と力を込められて、先程離した手を再び掴まれた。
そして細腕には似つかわしくない力強さで引き寄せられ。
どごっ。
「わたくしの国では婚前前の、恋仲でもない男女が軽々しく触れ合ってははしたないと言われるのです。覚えておいてくださいな」
にっこり、と花のように美しく咲き誇る笑顔で彼女は鳩尾を押さえて不本意ながらその場に膝をつくリドルのつむじを見下ろしたのだった。
二人が親密な仲となった今では珍しくない光景が、出会った当初も繰り広げられていたのだった。


日差しが眩しくなる季節が近づいても、リドルは城内の図書館で本を漁っていた。
禁書の棚への許可証は何の苦労をせずとも手に入れることができた。
ここへはそう簡単に他人は入り込めない。
人の目を気にせずに思う存分自分の好きな研究を行うことが出来るのは、リドルにとってホグワーツへ来た唯一の利点と言えた。
長期休暇のたびに戻らされる孤児院の、あの雑然とした清潔ではあるものの古びたかび臭い壁や床、そして絶えず泣き喚く年下の子供達に辟易していた彼は、静かな一人きりの空間を何より好んだ。
図書室の奥にあるこの場所にも、大きな窓が一つある。
気紛れに開けたその窓からは、移ろう季節の変わり目に相応しい様々な色を含んだ風が吹き込む。
木の葉の緑が鼻の奥に強く主張をする。
リドルは調べ物の手を止めて、何気なく風が吹いてきた方向を見やった。
「中々崩れないな」
それは今年の初めにやってきた転入生へ向けられた言葉。
初対面で落とせると思った。
大抵の女子は自分の容姿をかっこいいと誉めてくれるし、事実さらさらの黒髪も端正な顔つきもすらりと伸びた手足も充分にそれを示している。
何より自分の一番の魅力であろう、紅の双眸で見つめたら。
墜ちない者はいないはずだった。
なのにあのという日本からやってきた少女にはそれが通用せず、それだけではなくリドルは反撃まで喰らってしまった。
思い出せばまだ下腹部がじくじくと疼く様な気もする。
知らず羽ペンを持ったままの手をそこへ当てていて、彼は一度だけ忌々しげに舌打ちをした。
簡単に落とせるはずだったのだ。
そうしてこの禁書の棚へ入る許可を得たときのように、労せず東の国々の魔法の仕組みや術式を手に入れられるはずだった。
それがどうだ。
彼女はリドルに落ちるどころか、いつもにっこりおっとり微笑んでいて、美しい容姿と異国の特異性も重なり、今ではスリザリン寮の、ひいてはホグワーツで最も人気のある人物へと成り上がっていた。
全くの計算外だ。
今ではリドルの方が彼女に手を出し辛くなっている。
高嶺の花、という地位をその魅力で築き上げたに迂闊に話しかけることすらままならない。
「何か、早いうちに手を打たないと」
羽ペンを置いて、机に頬杖をつきながらどうにかして彼女をこちらへ引き込む方法を考えようとする。
が。
「あら、何がですの」
その場に響いた可愛らしい鈴の転がるような声にリドルは思わず頬杖から自分の顔を落としてしまう。
「あらあら。大丈夫ですか?」
硬い机にしたたかに顎を打ちつけ、図らずも涙目となってしまったリドルに声の持ち主は本棚の影からゆっくりとその姿を現す。
長い黒髪をさらりとゆらして、髪と同じ漆黒の瞳を柔和に笑みの形に細めながら。
一歩、一歩足を踏み出すその姿さえ一幅の絵のようで。
思わず見惚れたリドルも、次の瞬間には思い出したようにはっとする。
「何でここに?許可がないと入れないはずだよ」
詰問するような強い口調で相手を諌めようとしても、彼女はおっとりと「まぁ、そうですの?」と首を傾げるのみで。
「いいよ、もう。君はどうやら少し世間ズレしているところがあるみたいだし。それにしても司書に見つからずにどうやってここに来たんだ」
資料保存に使命を燃やす恰幅の良い司書の女性は、常に図書館中に気を配っていて、ちょっとやそっとじゃ彼女の目をかいくぐる事は出来ない。
それをいとも簡単にあっさりとやってのけた目の前の少女は見た感じで受ける印象ほどおっとりとしたお嬢様ではないのかもしれない。
注意深く相手の動向を観察しながらリドルがそんなことを思っている内に、はリドルの横にやって来て、先程まで彼が読んでいた分厚い禁術の魔法書を覗き込む。
「興味があるのかい?でもこれは禁じられた魔術だよ。僕らはやってはいけないことになってる」
影では散々にその効果を試しているリドルだったが、一応は普通の首席の態度を取らなければならない。
どうせ見たところで彼女に理解できるはずもないだろう、と僅かに目の前の少女を嘲りながら言ってみたが。
しかしはゆっくりと瞬きしながら目で文章を追う。
「あら。まあ、これではこの術は発動しませんわ」
やがてのんびりとした口調で告げられた言葉にリドルは目を見開いて驚く。
彼女は重力に逆らわずに落ちかかる黒髪を時折細い指でかき上げながら、反対側の手先で一つずつ呪文の一文を辿っていく。
「二文節目の出だしが間違っていますわね。ここは『朝焼けの貴婦人』ではなくて『黎明の淑女』でなくてはなりませんのに。それにこちらの発動条件もわたくしが知っているものと違うようですし」
「ミス・……」
「あら、どうぞとお呼び下さいな」
呆然と目の前の少女に声をかけると、顔を上げたがにこりと微笑む。
…君はいったい何処でこの呪文を?僕ですらまだこの魔法を完成させていないというのに」
禁じられた、古代の術を一見しただけですらすらと解してしまった。
それは魔法使いとして彼女が充分すぎるほどの高等な知識を持っているということだ。
自分にすらまだ手の届かない位置に、すでには到達している。
そんなはずはない、と打ち消したい気持ちでいっぱいだったが、認めざるを得ない状況だ。
リドルがホグワーツに入学してから今日この日まで、こつこつと積み上げてきた知識の山をあっさりと踏破してみせた彼女は今やリドルにとって最高の味方となり得るか、 はたまた最強の敵となるか、いずれにしても無視できない存在へとその身を膨らませた。
どっちだ、と計る様に自分を見つめてくる紅い瞳から楽しそうに逃れながらはついと歩いて窓際へ。
開けっ放しの窓から半身を乗り出しながら青い青い空を仰ぐ。
「わたくしにはどうしても叶えなければならない願いがあるのです」
「願い?」
彼女の言葉に鸚鵡返しに訊き返すリドルに軽く笑みをこぼしながらはその目に蒼穹を映す。
「その願いの為にわたくしははるばるここまでやって来て、そして貴方に出会いました」
リドルが椅子から立ち上がっても、彼女はまだ空を見上げている。
「運命を偶然ではなく必然の賜物だとするならば、やはりわたくしは貴方と出逢えたことを僥倖とするべきではないのですね」
無言のまま、背後に立つ少年を振り返り、は優しく聖母のように慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「つまり、君も僕と同様に、果たさなければならない目的の為に力を必要とする。その為の力が僕である、と。そういうこと?」
「察しの良い方で本当に助かりますわ。ええ、わたくしはわたくしの望む未来の為に貴方を利用致したく存じます。もちろんこれはわたくしの我儘であるのだから、貴方には当然拒む権利がありますわ」
「メリットは?僕が君の言う願いに加担した場合の、僕への見返りはあるのかい?」
一歩、彼女の方へ近づきながら、リドルはしかし例えそんなものが無くてもいずれはこの目の前の匂い立つ大輪の百合の花のように清廉で気高い少女に従うだろう自分を容易く思い描けてしまうことに笑いを隠せないでいた。
口元にかろうじて不敵、ととれる笑みを浮かべながらリドルは寸分の隙も無く完璧に微笑み続ける相手を見つめる。
たっぷりと返事を焦らした後に、は告げる。
「勿論」
と。
「わたくし自身が貴方のものとなるのでは不足でしょうか?」
と、おっとりと首を傾げて言ってみせたのだった。
これにはリドルも流石に言葉を失った。
何とも潔い対価の差し出し方をする日本人の少女に圧倒されて、声すらも口から出てこない。
沈黙は久遠のようで、しかし実際は刹那であった。
「は、はははっ」
腹を抱えて笑い出したリドルをは不思議そうに見ている。
壊れたように笑い続ける彼を、彼女は首を傾げるだけで反応を止めた。
何かをするほど二人の間に時間は流れていなかったし、二人の仲は親密ではなかった。
長い時間笑い続けたリドルだったが、時計の長針が一つの目盛りを過ぎる頃にようやくその笑いを納めた。
「ああ、久々だよ。こんなに腹を抱えて笑うなんて」
まだ時折ひくひくする腹筋を押さえながら、二つ折りになっていた身体をようやく立て直すと、彼は心から楽しそうに紅い眸を細めてみせた。
「いいよ。君の未来へ僕も力を尽くそう」
「まぁ、ありがとうございます」
了承の意を伝えても、彼女はふんわりと礼の言葉を口にするだけだった。
きっと断っていても同じようにしていただろう。
しかしリドルは諾、と返したのだ。
「これで君は僕のモノ、そうだね?」
傍に立ち、彼女の頬に手を添えながら確認すれば、彼女はゆっくりと頷く。
「訊いておこうかな。君の願いは何?」
至近距離で耳元に囁かれた甘い響きには両の瞳を伏せる。
「楽園へ。連れて行ってくださいな。貴方が、わたくしを」
丹花の如き唇から漏れ出た切ない声音に、リドルはくすりと微笑むと、誓いの儀を交わすようにゆっくりとそれを己の唇で塞いでゆく。
「いいよ。連れていってあげる。君が望むのなら、
名を呼んで、繰り返されるくちづけ。
窓の外では雲ひとつ無い晴天が広がり、眩しすぎる光が照らしている。
その恩恵を僅かに受ける建物の中、その一角で。
互いに抱きあう蒼いままの夢を、その結末を。
二人はまだ知らずにいた。







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完成日
2005/09/03