きっとあなたは恋をするわ。
いつか私を忘れてしまうわ。
だけどそれでいいの。


白昼夢



閉じた瞳をゆっくりと押し開けば、凍りついた湖が眼前に迫る。
吐息は白く、世界に置き去りにされたかのような錯覚さえ覚える。
「そういえば、リドルは冬がお嫌いでしたわね」
くすくすと、笑みをこぼしながら傍らに今はいない彼のことを思う。
真っ白に塗りたくられた世界では、音さえも断絶されているかのようだ。
静か過ぎる世界は耳鳴りを誘う。
きん、と痛む頭にわずかに顔をしかめながらはその場に立ち続ける。
そんな彼女に話しかけるヒトではない異形のモノ。


「ヒ……め、我らガ愛しキ姫…」

雪影にほの青く、溶けるように、しかし確かに其れはそこに存在している。

「時間、ジカンが…くる。終ま、ツへの。と、ト、扉………」

決して心地良いものではない。
異形のモノが放つ気配も、その声も。
だけどは薄く微笑む。
慈愛に満ちた優しい表情で、常人には決して視えないその存在を確かに捉えて。

「扉が其処にあっても、わたくしには其れを開く権利はありませんわ」
「開ク、ひラくぞ…扉、開く。絶対に…其レがさだめ、の……姫、のカナシキ夢もお、オ、終わル」

確信めいた異形の言葉にも、は黙って首を横に振るのみで。
そんな彼女の様子にざわざわと空気が騒ぐ。

「姫……泣くナ。泣くなひめ…」

ただ、ただ泣いて欲しくない、と。
そう願うだけなのに、空気がざわめきを訴える他に何も術がない。
歯痒い思いを、どちらも抱えたままやがて異形のモノは消える。

「涙など、流してはおりませんわ」

小さく呟いた言葉は雪に吸い込まれる。
白い、白い世界には、彼女の黒髪が異様に映える。



きっとあなたは恋をするわ。
いつか私を忘れてしまうわ。
だけどそれでいいの。
さみしくはないわ。
貴方が私を想っていつまでも泣くよりは、
誰かを愛して倖せになってくれた方がいい。
だから言うの。



「……?」
午睡から醒め、真っ先に呟いたのは彼女の名前。
リドルは起き抜けのぼんやりする頭でしばし寝台の天井を見つめる。
彼女の夢をみていた気がする。
だけどどんな内容だったかはまるで覚えていない。
何か、夢の中の彼女は言っていた気がするけれど。
思い出せない。
シーツにくるまったまま、彼女の容を思い出す。
指どおりの良い髪、しっとりと手に吸い付く白い肌。
繊細な指先と細い肢体、知的な煌めきを持つ黒曜の双眸。
ひとつ、ひとつ脳裏に描いては確めるように懐に忍ばせた彼女の写真が入ったパスケースを取り出す。
写真が嫌いなのか、滅多に撮らせてくれない彼女がたった一度だけ、一枚だけ渋々と映ったのがこれだ。
しかしその写真には魔法はかかっていない。
こちらのものではないからだ。
写真の中の彼女はこちらを向いてやんわりと、何処か困ったように微笑んでいるけれど、決して動かない。
それが不満で、何度も彼女に言い募ったけれど。
はそれ以上を拒んだ。
決して二度目を撮らせてはくれなかった。


『そんなことをしても意味がないと考えたのです』

『肖像画の中の人物はどんなに似ていてもその人本人ではありませんもの。 例え、生きていた頃そのままで描かれていても、触れることが出来ないのなら意味がありませんでしょう』


前に言っていた彼女の言葉は、なるほど真実ではあるけれど。
それでもやはり物足りない気持ちを消化することはできない。
起き出して、裸足のまま冷たい床に下りる。
「おや、起きたんですか」
リドルが起きたことに気付いたアレンが机の前の椅子から振り返る。
は?」
「さあ、今日は部屋にはいらっしゃらないみたいですよ。ユーディールも先程探していましたから」
プラチナブロンドの少年がその髪を揺らして首を傾げる様を横目にしながらリドルはローブを羽織り、マフラーを手に取る。
「一通り逢瀬を楽しまれたらユーディールにも少し貸してあげてくださいよ」
リドルが何をしに行くのか、理解したアレンが言うと、扉に手をかけたリドルは意地の悪い笑みを浮かべて顔だけ振り返った。
「嫌だね。は全部僕のモノだもの」
「そこを何とか。でないと彼女、うるさいんですよ」
「彼女の機嫌を取るのも恋人としての役目だろう?」
「そうなんですけどね」
結局リドルに口では勝てないと悟ったアレンが先に諦めて肩を竦める。
その様子に軽く笑って、リドルは外に出た。


「風邪を引くよ」
声がした、と思ったら、ふわりと身体ごと抱きしめられた。
リドル、とその名を呼べば。
首筋に熱いくちづけが降りてくる。
「冷たい」
眉をしかめて言う彼に、は小さく笑った。
後ろから抱きすくめられた格好のまま、はリドルの髪に手を差し込む。
自分のものとは質の違うその感触を指先で楽しむ。
リドルは何も言わず、されるがままだ。
こういうときがいとしい。
こんな関係がひどく愛しい。
言葉を重ねなくても情を交わせることが嬉しい。
「ずっと一緒にいられたらいいのに」
彼の口から零れた言葉には何も返さない。
「少し離れているだけで、君のカタチも、感触も、すぐに忘れてしまいそうになる」
「忘れてしまっていいのですよ」
「いいわけないだろう」
「いいえ。忘れてしまっていいのです。わたくしのことなど覚えていなくてもいいのですよ」
静かに、しかしきっぱりと強く言い放つ彼女に不安を覚えたリドルが抱きしめる腕を緩めての顔を覗き込む。
意志の強い黒い瞳は、伏せられて表情が読み取れない。
「みんな、全部忘れてしまえば。あなたは自由になれるのに」
ぽつり、と赤い唇から呟かれたその音が紡ぐ言の葉に。
目を見開いたリドルは次の瞬間、を全力で抱き締めていた。
その拍子にバランスを崩した二人は揃って雪の上に転がり込む。
下になったの長い黒髪が雪原に広がる。
黒と白と、コントラストのはっきりした様に眩暈がする。
「夢をみたんだろう。きっと、性質の悪い悪夢を。だから君はそんなことを言うんだ」
震える声でそう言うリドルは落ち着かない心のまま。
それでも言ってしまえば優しい彼女はきっと頷くだろうから。
言葉で縛ってしまえばそれが本当になるから。
だから。
言わないで。
言わないで、そんなこと。
「忘れろだなんて、そんなこと言わないで」



きっとあなたは恋をするわ。
いつか私を忘れてしまうわ。
だけどそれでいいの。
さみしくはないわ。
貴方が私を想っていつまでも泣くよりは、
誰かを愛して倖せになってくれた方がいい。
だから言うの。
別れの言葉を。
さようなら、とたった一言。
未来へ歩くあなたにはきこえないように。








前  次 
完成日
2005/09/23